次世代に伝えるスポーツ物語一覧

相撲・双葉山

 相撲界がさまざまな不祥事に荒れている。江戸時代にさかのぼる歴史ゆえの旧体質を持ち続けていた結果かもしれない。しかし、その歴史ゆえに相撲は、国民の心に根をはやした伝統文化ともいえる“国技”だ。歴史のさまざまな場面で、人々の心を慰撫し、奮い立たせてきた。中でも、白鵬が現在連勝記録を伸ばし続けているが、その先にそびえる69連勝という金字塔を打ち立てた双葉山は、戦前、戦中の暗い世相の中で、国民にしばしの熱狂を与えてくれた。
 1912年2月、大分県宇佐市生まれ。5歳のころに友人の吹き矢があたり、右目がほぼみえない状態で、さらに少年のころに、家業の海運業の手伝いで船に乗っていたときに2度しけにあい、右手小指を欠損。そんなハンディを背負いながらも、16歳で角界入り。二枚腰、とも呼ばれた強靭な足腰で、当初は土俵際でのうっちゃりを得意とした。とはいえ、不世出と将来呼ばれる双葉山も、このころは非力さから伸び悩み、一時廃業も考えた。
 しかし、猛稽古によって着実に実力を身につけていき、右四つの型を体得する。右四つで組んだ後の強烈な左上手投げは、手口を知りぬいた相手ですらかわすことができない完成された取り口だった。
 69連勝のはじまりはなんと、前頭から。東前頭3枚目で挑んだ1936年1月場所(当時は年2場所制=1月と5月=で、1場所の取組は11日)。6日目に横綱・玉錦に敗れた翌日から、1939年1月場所4日目に西前頭3枚目の安藝ノ海に敗れるまで3年間続いた。その間、関脇、大関、横綱と昇進。全勝優勝で5連覇を果たした。熱狂的な双葉山人気にあやかり、1937年5月場所から13日制、さらに1939年5月場所から15日制にまで取組が増えた。
 さて、1939年1月15日の安藝ノ海との世紀の一番である。前年9月の満州巡業でアメーバ赤痢にかかり、体重も激減し、体調不良の双葉山。しかし、横綱としての責任感からこの場所も土俵に上がっていた。そして迎えた4日目。安藝ノ海の突っ張りをこらえる双葉山。安藝ノ海は右で前ミツを引き、左上手を取った。廻しが取れない双葉山は右から掬い投げを打ち、安藝ノ海は左足が浮きかけたが、逆に外掛け。棒立ちとなっていた双葉山は、天下の二枚腰でこらえつつも、安藝ノ海の執拗な攻めの前についに左膝から土俵へ落ちた。このときのラジオ中継のアナウンスの「やはり70古来稀なり」というのは有名。
 もっとも、双葉山の全盛期は実は連勝が途絶えた後とされる。その後、7回の優勝を飾り、戦時中の国民の心を明るくした。1945年の終戦の年に引退し、「双葉山」は、プロ野球の永久欠番に相当する「止め名」となっている。=敬称略(銭)