次世代に伝えるスポーツ物語一覧

託された重責、柔道・神永昭夫

 その日、新装された日本武道館には、15000人もの観客がつめかけた。東京五輪閉会式の前日、1964年(昭和39年)10月23日。目的は柔道無差別級、天下分け目の一戦。“本家”のプライドを一身に背負ったのは仙台市出身の26歳、神永昭夫。対するは、オランダの巨人、アントン・ヘーシンクだった。この大会から五輪正式競技(軽量級、中量級、重量級、無差別級の4階級)となった柔道。日本勢に課されていたのは「4階級制覇」だった。何とか3階級で金メダルを手にした日本。あとはこの無差別級が残るのみという状況だった。
 3年前、パリで行われた世界選手権。神永を含む日本勢3人はヘーシンクに敗れていた。198cm、120kgの巨人はまさに日本の前にそそり立つ壁。誰かがヘーシンクを倒さねばならない。誰か-。世界選手権で敗れた神永ではなく、一度も対戦したことのない猪熊功をぶつけることも考えられた。しかし、安定性抜群で、猪熊よりも体格で勝り、この年の全日本覇者でもあった神永に、重責は託され、猪熊は重量級に回る。かつて天理大の門をたたいたヘーシンクに“柔道の心”を教えた監督の松本安市は、ヘーシンクの強さを理解した上で、神永を送り出す。祈るような思いだったろう。
 組み合わせで同じ組に入った両雄。早くも2試合目に対戦することになった。だが、どちらが勝利しても、敗者復活戦を経た決勝での再戦は確実。「ここで手の内を見せない方がよい」。こう判断した神永側は、必殺の体落としを封印する。結果はヘーシンクの優勢勝ち。神永は敗者復活戦を経て、ライバルより2試合多い5戦を戦い、決勝の舞台に立つ。かくして日本中が固唾を飲んで見守った世紀の一戦は始まった。
 両前襟をとるヘーシンクに対し、2回りも小さい179cm、90kgの神永は左自然体。試合が動いたのは開始5分。ヘーシンクの放った支え釣り込み足で、神永が横転。ヘーシンクはすかさず崩れ横四方固めへ。このピンチを必死に脱した神永は、7分、伝家の宝刀の左体落としを繰り出す。だが、巨体は傾いたものの、不発。そして8分30秒過ぎ、神永は内股気味の大内刈りを仕掛ける。すると懐に入ってくるのを、待ちかまえていたようにヘーシンクが寝技に持ち込んだ。左袈裟固め。必死にもがく神永。だが、巨体は動じない。これで試合は決した。
 「完敗でしたが、やるだけのことはやりました。ヘーシンクは心技を備えた立派な柔道家でした」と神永。松本は「金メダルの十字架を背負わされて黙々と精進した神永、苦しい毎日だったと思う。負けたとはいえ、誰かがやらなければならない大役、頭が下がる思いです」。悲嘆にくれる周囲の状況は想像に難くない。非難の声もあっただろう。だが、この2人の言葉に、スポーツマンシップの真髄が浮かぶ。
 神永は引退後、母校の明大監督、日本代表監督などを歴任し、黙々と後進の育成に打ち込んだ。そして1976年モントリオール五輪で、ついに直弟子の上村春樹が悲願の無差別級優勝を果たすことになる。=敬称略(昌)