次世代に伝えるスポーツ物語一覧

日本の体操と球技の始祖・坪井玄道

 2006年、1人の故人が日本サッカー殿堂入りを果たした。死後80年以上も経ってからの表彰だった。殿堂入りしたのは坪井玄道。日本にサッカーを初めて紹介し、普及に努めた功をたたえたものだった。だが坪井は、サッカーだけでなく、卓球、テニス、ベースボールなどの球技を日本にはじめて紹介したことでも知られる。そしてもっとも心血を注いだのは、身体面で欧米に劣る日本人の体力向上などを目的とした、体育教育への体操の普及だった。
 坪井は、ペリーの黒船が来航する前年の1852年、現在の千葉県市川市で生まれた。江戸幕府の「開成所」(現・東京大学の前身)で英語を学び、明治維新後は東京師範学校や宮城英語学校に勤めた。体操とは関係ない分野で働いていたが、転機は1878年に訪れる。この年に開設された体操伝習所に移り、アメリカ人の体操教師、リーランドの通訳を務めるうちに、いつしか体操にのめり込んでいった。3年の滞在でリーランドが帰国した後は、後を引き継ぎ、徒手や亜鈴、球竿を使った普通体操(軽体操)の普及に努めた。
 体操とともに遊戯(スポーツ)も併用すべし、として、1885年に出版した「戸外遊戯法 一名戸外運動法」(田中盛業と共著)で、二人三脚競争、綱引き、ベースボールなど21種類のスポーツを紹介。サッカーを「フートボール(蹴鞠の一種)」と呼んで日本で初めて紹介した。体操伝習所はのちに東京高等師範学校(現・筑波大の前身)に吸収されたが、1896年に嘉納治五郎校長の下で開設された8つの運動部のうち、坪井はフートボール部長を務めた。また、同書ではローンテニスも紹介された。坪井はテニスの普及のために、高価な硬式球に代わる軟式のゴムボール製作をゴム会社と進め、国産化に成功。現在のソフトテニスの基礎を築いた。
 49歳で迎えた1901年、英独仏へ一年間の海外留学に赴く。欧州で盛んとなってきていた近代スポーツに触れ、帰国時には、卓球用具一式を持ちかえった。これが卓球が日本へ紹介されたはじめてのこととされる。
 坪井は現在につながる多くの球技を紹介する一方で、体育教育として体操の普及にも努めた。晩年は、女子の体操教育に力を注ぎ、1922年4月、東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大)の名誉校長となり、同年11月に70歳で死去した。
 体操王国、サッカーワールドカップでの活躍など、日本のスポーツ界の基礎をなした根幹に、坪井の努力があったことは忘れられてはならない。=敬称略(銭)