射撃・蒲池猛夫 逆境を跳ね除けての金メダル
48歳。頭に白いものが交じり、1歳半の孫もいた。1984年ロサンゼルス五輪ラピッドファイアピストルで日本射撃界に初の金メダルをもたらした蒲池猛夫。一度は現役を退き、復帰して臨んだ5度目の五輪での快挙だった。
3年前、致命的なアクシデントに見舞われた。右人さし指の伸筋腱断裂。引き金を引く利き腕だった。1981年6月。蒲池が、埼玉県朝霞市にある射撃場そばの草刈りを行っているときだった。足場の悪い土手の斜面でバランスを崩し、気がついたときには鎌の刃先が右人さし指に食い込んでいた。
「これで自分の射撃人生は終わったのかと思うと、目の前が真っ暗になりました」。思いも寄らぬ、事故で絶望感のどん底にたたき込まれた。この負傷により、蒲池は現役を退いて、後進を指導する側に回る。だが、競技への情熱は静かに宿っていた。「もしかしたら、もう一度チャンスがあるかもしれない…」。この思いが蒲池を奮い立たせた。かすかな可能性を信じ、自宅で練習に励む日々。生活を左手中心に切り替えもした。極限の集中力が要求される競技。12位に終わったモントリオール五輪後からは精神面の強化も続けていた。暗闇でロウソクの炎を凝視し、禅寺で座禅も組んだ。そうした努力は報われる。若手が台頭してこないこともあって復帰を要請され、再び強化選手に指定された蒲池は、日本のボイコットで不参加となった80年モスクワ五輪を含め、5度目の五輪、ロサンゼルスへと臨むことになった。
1936年に満州(現中国東北部)で生まれ、自衛隊に入隊。26歳で受けた射撃検定で特級の成績をあげたことで、自衛隊体育学校の1期生となった。32歳でメキシコ五輪に初出場して13位。続くミュンヘン五輪は33位、40歳でモントリオール五輪を経験した。ラピッドファイアピストルは、25㍍先の的を8秒射、6秒射、4秒射の順でいかに正確に撃ち抜くかを競う。5度目の大舞台となるロサンゼルスで前半4位だった蒲池は、後半の2日目、8秒射、6秒射で満点。4秒射の最初の5発のうち2つを外したものの、600点中595点をマークして快挙を呼び込んだ。日本最年長金メダリストの誕生だった。
「以前なら邪心が頭をもたげ、プレッシャーで崩れたはず。ところが、あのときは最後まで平常心で撃てました」。積み重ねてきた経験はもちろん大きな支えになっただろう。だが、それ以上に、逆境を乗り越えてつかんだ精神力が発揮されたがゆえの優勝。決してあきらめずに、自らを鍛え抜いた末に立った頂点は、ロサンゼルス五輪での日本選手第一号金メダルでもあった。=敬称略(昌)