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野球・野村徹

 2010年秋、神宮球場を舞台に行われた50年ぶり4度目の早慶両校による優勝決定戦。スタンドから温かい眼差しを注ぐ両校OBたち。中でも前早大監督の野村徹は、監督当時、「神宮(のスタンド)を再びいっぱいにしたい」と常々語っていただけに、母校の勝利(10対5)はもちろん、超満員に膨れあがったスタンドに感慨はひとしおだったに違いない。
 1937年、生まれ。大阪府立北野高校から早大に進み、50年前の1960年秋、球史に残る「早慶6連戦」で正捕手として6試合全てにマスクをかぶり、優勝に貢献した。卒業後は、社会人の大昭和製紙でプレーし、引退後、社会人、高校などで監督を務める。早慶6連戦で、本塁をまさに死守した活躍ばかりが目立ちがちだが、野村の真骨頂は指導者にあったといえそうだ。1970年に大昭和製紙の監督として都市対抗を制すと、88年には大阪・近大付高を春、夏連続で甲子園に出場させた。そして98年11月、ワセダの監督に就任する。5年間優勝から遠ざかり、低迷していた母校に請われてのことだった。
 最初の4カ月を、野球部の寮、安部寮で寝食を共にしたばかりでなく、その後も寮近くに住み続け、朝から晩までフルタイムで母校の再建に力を注いだ。
 監督を要請された当時は61歳。家族のこともあり、「迷った」という。そんなとき、病床の3歳上の兄が背中を押したのだという。「あのワセダが頼んでいるんだ。おれのことはいい、行きなさい」と。以来、頭脳派で知られた6連戦捕手はとにかくよく動いた。自らノックバットを握っていたかと思えば、ブルペンへ。朝から晩まで東伏見のグラウンドに立った。
 「努力している選手にチャンスを与えたい」。特に1年生には分け隔てなく、手取り足取りの指導を惜しまなかった。
 成果は実る。監督就任の翌春、いきなり優勝を果たすと、以来、早大初の4連覇、全勝優勝も遂げ、12シーズンで5度のリーグ制覇を成し遂げた。
 背番号「30」を背負っての最後の早慶戦は2004年11月1日。試合終了後、ベンチ裏に戻り、田中浩康主将の涙を見ると、思わず瞳が潤んだ。グラウンドでは慶大の胴上げ。初戦を3対4で惜敗して迎えた2回戦は2対8での完敗。「もっと早慶戦らしい試合がしたかったが…。(選手たちを)万全の状態で臨ませてやりたかった」。エースは背筋を痛めて登板できず、田中主将もけがを押しての出場だった。
 「悔しい」。野村監督の本音だった。だが、同時に「悔いはない」とも。「選手に恵まれ、素晴らしい6年間だった」と日焼けした顔で振り返り、「何とかバトンは渡せた」と視線を挙げた。低迷が続いたチームを見事に再建した名将の門下からは、和田毅、鳥谷敬、青木宣親ら、プロ野球だけでも蒼々たる顔ぶれが輩出された。伝統は受け継がれていく。=敬称略(昌)