次世代に伝えるスポーツ物語一覧

レスリングの先駆者・内藤克俊

 日本におけるレスリングは、1929年に早大柔道部が米国遠征し、レスリングに敗れたことから、1931年に遠征メンバーだった八田一朗が同志たちと大学にレスリング部を創部したのが始まりとされる。確かに日本初のレスリング組織という意味ではそうだというが、個人としてはそれ以前に、五輪でメダルを獲得した先駆者がいた。内藤克俊。1924年の第8回パリ五輪でのことだった。
 日本にとって3回目の五輪となったパリ大会。ただ前年の9月1日に関東大震災に見舞われ、その被害の甚大さに派遣母体の大日本体育協会では一時、派遣すべきかどうか悩んだという。最終的には陸上、水泳、テニス、レスリングの4競技に選手19人を派遣。留学先のペンシルバニア州立大でレスリング部の主将を務めていた内藤は、ただ1人のレスリング代表として選ばれ、米国選手団とともにパリ入りした。
 排日移民議案が可決された当時の米国で、日本人が米国の大学の運動部の主将に推されるというのは異例であり、そのことからも競技力はもちろんだが、内藤の人望がいかに高かったかが伺える。迎えた五輪でもそんな内藤の“魅力”の一端はしっかりと示された。
 パリに向かう船中での練習中に左人差し指を痛めた内藤は、そのハンディを抱えたまま、大会に臨むことになる。それでもせっかくの機会。もともとフリースタイルが専門ではあったが、負傷も何のそのとばかりに、グレコローマンにも出場した。専門外のグレコローマンでは4回戦止まり。だが、1日おいて行われたフリースタイル・フェザー級では順調に勝ち進み、見事に銅メダルを獲得した。左人差し指の負傷を抱えての試合に次ぐ試合で、首、腕、手首も痛めていたといい、途中、医師から棄権も勧められたという内藤。まさに満身創痍で獲得したメダルだった。
 1895年に広島県に生まれ、幼くして両親を失った内藤は、姉の嫁ぎ先である台北に引き取られて育った。柔道を続けながら、台北一中から鹿児島高等農林学校(現鹿児島大)を経て、米国に留学。留学先で出合ったレスリングというスポーツに興味を覚え、熱中していった。そしてパリ五輪で日本勢唯一のメダルをもたらすことになった。
 内藤は後にブラジルに渡り、実業家として成功を収める一方で、日本からの移住者の子弟に柔道を教え続けたという。またパリ大会から40年後に母国で開催された1964年東京五輪に際し、レスリングの先駆者として招待されて来日、“後輩たち”の活躍を観戦した。そして69年、サンパウロで74年の波乱に富んだ生涯を閉じたという。日本のお家芸となったレスリングには、この先駆者がパリ五輪で見せた根性が受け継がれているように思える。=敬称略(昌)