次世代に伝えるスポーツ物語一覧

箱根駅伝余話

 出雲全日本選抜(前年10月)、全日本(前年11月)に続き、早大が総合優勝を飾って、史上3校目の大学駅伝3冠を達成して幕を閉じた2011年1月開催の第87回東京箱根間往復駅伝(箱根駅伝)。いまでは毎年恒例の正月の風物詩として定着し、多大な人気を集める大会になっているが、ここまで大会が成長するには、先人たちが積み重ねた苦労も多かった。
 例えば、1943(昭和18)年の第22回大会。戦局の緊迫化につれて各種競技会の開催が困難になり、全国的な大会がほぼ姿を消していく中で開催された。もっとも名称は「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」。締め付けが厳しさを増していく中で、開催許可を得るために考え出された名目だった。
 「学窓に別れを告げ、戦地に向かう学生たちに、餞となる思い出を贈りたい…」としてこの年の10月には球史(野球)に残る「出陣学徒壮行早慶戦」が行われるが、その思いは箱根駅伝にも通じていた。第21回大会が行われたのは1940(昭和15)年1月。以来、中断を余儀なくされていたことを思えば、思いは自明だ。軍需物資輸送などを理由に東海道が使用禁止となったためで、鍛錬継走大会開催には箱根復活への情熱がうかがえる。第80回大会を記念し開催されたシンポジウムで、当時の関東学生陸上競技連盟会長の廣瀬豊は「何としてもあと1回箱根駅伝を開きたいと、何度も折衝を続け、しかも学生だけの力で運営した。この(昭和18年の)大会が箱根駅伝の原点だと信じている」と振り返っている。
 一方、1920(大正9)年に産声をあげ、長い歴史を誇るだけに、その草創期にはいまでは考えられないような逸話も数多く生まれた。その最たるものが1925年(大正14)年開催の第6回大会に残っている。1月6日午前8時に、熱戦の火ぶたが切られたレースで、舞台は平塚の第3中継所だった。2区でトップに立った中大がそのまま先頭でタスキをつなぐと、2分14秒遅れて日大が続いた。6位からの大躍進。ところが、その後、この4人抜きを演じた選手がエントリー選手とは全くの別人であることが判明する。なんと人力車夫だったという。
 当時、車夫の強さには目を見張るものがあったようだ。さすがは「脚力を業とする」プロ集団。1920年11月に行われた第8回陸上競技大会のマラソンでは1位から5位(アマチュア規定により失格)までを車夫が占めたほどで、箱根駅伝史上に登場した車夫の健脚ぶりも伺い知れる。「箱根駅伝70年史」には「日大は責任を感じてか、第7回大会は出場をとりやめた」とあり、記録にも本来の選手名の横に、この車夫の名前が残る。ところで、なぜ車夫と分かったか。選手を抜き去る際に「あらよ!」と声を発したから、といわれている。大会を大切に紡いできた先人たちはもちろん、こうしたエピソードがあっていまの隆盛がある。=敬称略(昌)