次世代に伝えるスポーツ物語一覧

スキー複合・荻原健司

 トップ選手にとって、自らの力を引き出してくれる好敵手の存在は欠かせない。スキー複合で1990年代に世界の頂点に立った荻原健司にとっては、ライバルであり、“チームメート”でもあった河野孝典の存在が大きかった。

 1969年12月、群馬県生まれ。小学校5年生の時にジャンプを始めた荻原は、群馬・草津中時代に複合に転向して、その才能を開花させていく。長野原高校時代に高校生ながら日本代表Bチーム入りし、早大入学後、1年先輩で高校時代からライバルだった河野孝典とともに切磋琢磨し、力を蓄えていった。河野は、当時のトップ選手だったノルウェーのエルデン兄弟の家にホームステイをして最先端の練習法を吸収するなど意欲的であり、荻原も間接的ながら最先端の練習法に触れ、互いに刺激を与え合っていく。ジャンプでは当時、スキー板をそろえて飛ぶのが普通だったが、荻原は92年アルベールビル五輪を前に、板の先を開いて飛ぶV字ジャンプをいち早く習得。ジャンプの飛距離でリードして、クロスカントリーで逃げ切る展開で、同五輪複合団体で河野らとともに金メダルを獲得した。さらに92年からの3シーズンはワールドカップ27戦で表彰台を逃したのがわずかに2度だけという驚異的な強さをみせた。あまりの強さに「宇宙人」と呼び外国メディアもあったほどだった。
 それだけに複合団体連覇のかかった94年リレハンメル五輪では、個人でも荻原、河野のワンツーフィニッシュへの期待が高まった。だが、そこはやはり五輪。得意のジャンプで荻原が6位、河野が4位となり、必勝パターンが崩れる。それでも河野は踏ん張って銀メダルを獲得。荻原も必死に前を追ったが、惜しくも4位に敗れた。このままでは終われない。雪辱を期して迎えた団体で、見事に力を発揮した。河野が1本目のジャンプで100メートルのバッケンレコードをマークすると、荻原も2回目に96メートルの大ジャンプを見せて、2位ノルウェーに5分以上の差をつけて距離につなげ、2連覇を果たした。

 スポーツ選手の宿命なのだろう。競技生活の最後は思うようなジャンプができずに苦しんだ荻原。だが、どんなにジャンプで出遅れようとも後半の距離にも全力を投入。そうした姿勢が評価され、2001年には国際フェアプレー賞功労部門栄誉賞を受賞。そして2002年ソルトレークシティ五輪を最後に現役を引退。その後は参議院議員にも当選し、スポーツ振興に力を注いでいる。=敬称略(昌)