次世代に伝えるスポーツ物語一覧

大学野球監督・島岡吉郎

 37年間にわたって明治大野球部の監督を務め、同部を東京六大学リーグ戦で優勝15回、大学選手権優勝5回に導いた。さらに、日本代表の監督として日米大学野球選手権で2度の優勝を果たした。しかし、それらの業績だけでなく、人間としての成長の先に結果がおのずと付いてくるという「人間力野球」を実践し、数多くの学生を野球界だけではなく、社会へ送りだした。
 長野県南部の高森町で1911年6月に生まれる。明治大政経学部を卒業後、証券会社に勤務。戦時中は、海軍特務機関の工作員として、中国、台湾、マカオなどの海賊との交渉を任務とした。まさに、胆力と人間力がなければ相手に一飲みにされてしまう仕事だった。
 戦後は明治中(現明治高校)の野球部で監督を務め、甲子園に3度出場。1952年に明治大野球部の監督に就任したが、島岡は学生時代には応援団長を務め、野球経験はない。これに反発した部員が集団退部する事態に至ったが、設備の充実に力を入れ、朝6時からの早朝練習などの厳しい練習を課して部員の日々の生活態度を改めていった。こうして着実に力を付けた同部は、就任4シーズン目の1953年秋季に戦後初の優勝を飾った。
 1年365日のうち、335日を選手とともに合宿所で生活し、早朝から深夜まで練習に付き合った。ピンチになると、「何とかせい」と怒鳴った。寝食を共にした選手を信じているからこそ口を突いて出る言葉だった。
 島岡のもとからプロへ巣立っていった者は多い。秋山登、土井淳、高田繁、星野仙一、鹿取義隆、広沢克己、武田一浩と枚挙に暇がない。1968年のキャプテンを務めた星野は、徹底したスパルタ式のしごきの中で、1人トイレ掃除をさせられ続けた。疑問に思った星野が理由を問うと、「トイレ掃除は低い心にしてくれる」と答えたという。島岡の薫陶は星野のその後の野球人生に大きな影響を与え、師への敬愛を込めて、「明治大学島岡学部野球学科卒」と語るという。
 晩年は糖尿病から体調を崩したが、1988年秋季まで車いすに乗ったまま監督として指揮を取り続け、翌年4月に亡くなった。1991年にプロ野球と関係がない者として初めて、野球殿堂入りした。
 「御大」と呼ばれ、もしも「名物監督」というジャンルがあれば、必ずランクインされるであろう島岡。「精神」「根性」「気合い」。これらの言葉が忌み嫌われる昨今において、そのどこまでも泥臭い姿は逆に新鮮味を放っている。=敬称略(銭)