次世代に伝えるスポーツ物語一覧

プロ野球・中西太

 「おらがチーム」。地元の人々が、愛着と誇りを込めてこう呼んだ球団があった。西鉄ライオンズ。いまはなき、平和台球場(福岡市)を本拠地に、1956年(昭和31年)から3年間、球界の王者として君臨。選手たちは、みな個性派揃いで、「野武士軍団」とも称された伝説のチームだ。3連敗後に、4連勝した球史に残る1958年の巨人との日本シリーズでは、監督の三原脩の作戦・戦術を評して「三原魔術」、エース稲尾和久の度重なる奮闘に「神様、仏様、稲尾様」といったキャッチフレーズまで生まれた。いまも語り継がれるこの伝説のチームの主砲、4番に座っていたのが中西太だった。

 1933年(昭和8年)4月生まれ、香川県高松市出身。長じて野球の虜となった少年は、高松一高に進み、本塁打を量産したこともあって「怪童」と呼ばれた。甲子園には1949年(昭和24年)の春と夏、1951年の夏と、3度出場してベスト4に2回進出。卒業後は早大への進学を希望していたが、周囲の“説得”もあってプロ野球へ。18歳、1952年のことだった。
 高卒ルーキーながら、1年目から活躍して新人王に輝くと、その後も首位打者、本塁打王、打点王のタイトルを次々と獲得。特に入団2年目の1953年から4年連続で本塁打王に輝いた。打棒ばかりではない。がっちりとした体格ながら、足も速く、1953年には36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割、30本塁打、30盗塁も達成。三塁手として守備もうまかった。
 まさに「怪童」。それだけに語り継がれる伝説も多い。「打った後にバットから焦げたようなにおいがした」「ショートがライナーを捕ろうしたが、そのまま打球が伸びて外野スタンドに突き刺さった」などなど。飛距離も群を抜いており、1953年8月29日、平和台球場で行われた対大映戦。6回2死で打席に立った中西は、林義一が投じた2球目をフルスイング。打球はバックスクリーンを超え、場外へ。その推定飛距離は160㍍以上とも伝えられている。
 プロ実働18年で、通算打率3割7厘、244本塁打、785打点、1262安打。首位打者を2回獲得し、本塁打王5回、打点王にも3度輝いた。引退後も監督やコーチを歴任して後進の育成に尽力し、座右の銘でもある「何何苦楚(=何事にも苦しむことが礎(いしずえ)となる)」という精神は、指導をしたイチロー(マリナーズ)や岩村明憲(楽天)らに受け継がれている。=敬称略(昌)