次世代に伝えるスポーツ物語一覧

体操・中山彰規

 いまから40年余り前、「体操ニッポン」を支えた種目別のスペシャリストがいた。中山彰規。つり輪と鉄棒にその名を冠した技「ナカヤマ」を持ち、1968年メキシコ五輪の種目別で3つ、72年ミュンヘン五輪でも種目別つり輪で頂点に立ち、両五輪団体総合の2つと合わせて、6つの金メダルに輝いた。
 1943年3月の生まれ、名古屋市の出身。体操を始めるきっかけとなったのは、中学3年のときに、地元名古屋市内で行われた体操の実演会で、小野喬らの演技に魅了されたことだった。中京商(現中京大中京高)に進み、本格的に体操を始めた中山は、後に「あの感動がなかったら別の道に進んでいたかもしれない」と振り返っている。
 月日が経過し、10年前に感動を味わった少年は、感動を与えられる立場に立った。25歳で臨んだメキシコシティー五輪。個人総合では銅メダルだったが、閉会式の前日に行われた種目別になると演技に切れが増していった。最初の床運動で銀メダルを獲得すると、3種目目の得意のつり輪で、金メダル。十字懸垂で静止したときには「もうすぐ拍手が来るぞ」と観客を意識する余裕すらあったという。
 しかし、続く跳馬で、日本チームに動揺が走った。エースの加藤沢男が練習中に左腰を痛めて棄権。中山は、加藤に代わって出場したが、5位に終わった。このとき「沢男に悪いことをした。何とかして一つでも多く日の丸を揚げたかったのに…」と悔しさをかみしめた中山は、5種目目の平行棒で雪辱を果たす。ほぼ完璧の演技を披露して9・70点(当時は10点満点)をマーク。個人総合2位で跳馬も制したボローニン(ソ連=当時)を振り切って金メダルを獲得し、「体操というのは結局、自分との戦いなんだ。相手が10点を取ったら、自分も10点を取る。勝てなくても負けにはならない」と淡々と振り返った。
 最後の鉄棒もライバルはボローニンだった。持ち点はボローニンと同じ9・75点。そのボローニンが9・80点の高得点をマークしたが、中山は焦りを見せない。緊張した表情で鉄棒に飛びつくと、高難度の連続技を決めていく。着地でわずかに揺れたが得点は9・80点。ボローニンと金メダルを分け合った。
 4年後の1972年ミュンヘン五輪では主将として支えた。団体総合で五輪史上初の4連覇に挑んだ日本男子陣。規定演技でライバルのソ連(当時)に2・85点差をつけてトップに立ち、2日後の自由演技へ。この楽勝ムードが隙を生んだのか…。ともに24歳の塚原光男と岡村輝一があん馬で失敗し、8点台に沈んだ。ここで嫌な流れを断ち切ったのが中山だった。堅実な演技でチームに安定感を与え、結果としてはソ連に7・20点もの大差をつけての圧勝。種目別のスペシャリストは、団体総合でも自らの役目をしっかりと果たすことでチームに貢献した。竹本正男監督は「彼が一番のヒーロー。今夜の金メダルは、彼が取ったといっても言い過ぎではない」。こう言って29歳の主将を絶賛した。
 引退後も母校の中京大教授として後輩たちを支え、2005年には国際体操殿堂入りを果たした。=敬称略(昌)