次世代に伝えるスポーツ物語一覧

柔道・古賀稔彦

 2本の旗が自分に揚がったのを確かめ、歓喜の雄叫びを上げた。1992年バルセロナ五輪柔道71kg級決勝。古賀稔彦が手にした金メダルは、壮絶な「気力」でつかみ取ったものだった。
 日本の五輪選手団の主将として意気揚々と現地に乗り込んだが、試合の10日前、前途は暗転した。吉田秀彦との乱取り中に左膝の靱帯を損傷。普通に歩けるようになるだけでも1カ月はかかる重傷だった。練習は全く出来なくなり、試合当日でさえ、足を引きずりながら横歩きしかできなかった。
 患部をテーピングで固め、試合直前と準決勝前には痛み止めの注射を打って畳に上がった。左足をかばい、右足での巴投げを多用した。得意の背負い投げも繰り出したが、軸足の左足に負担がかかり、キレはなかった。それでも準決勝でドットに背負い投げで一本勝ち。ハイトシュとの決勝は攻め抜き、旗判定でものにした。この間、古賀は、こう自分に言い聞かせていたという。
 「必ず勝てる方法はある」
 その2年前、不屈の勝負哲学につながる悔し涙があった。体重無差別で「柔道日本一」を決める全日本選手権。71kg級の古賀は得意の一本背負いを駆使し、100kg以上の選手を次々と下して勝ち上がった。決勝の相手は前年の世界選手権無差別級王者、小川直也。体重差は実に55kgもあった。
 果たして結果は7分13秒、足車で一本負け。叩き付けられた畳から武道館の天井を仰ぎ見た。試合後、涙がこぼれた。古賀は自分を恥じていたという。勝敗以前に、「(タイトルに)挑戦してみるか」という安易な姿勢だったことを。組み手に妥協はなかったか。あふれ出たのは、勝負への甘さに対する痛恨の涙だった。
 2000年、全日本体重別選手権で1回戦負けし、シドニー五輪出場の道が閉ざされ、引退を決意した。小学校1年で柔道を始め、2つ年上の兄の背中を追って中学1年で上京。東京の私塾「講道学舎」で心技体を磨き、膝を付かない美しき背負い投げで数々の栄冠を獲得した「平成の三四郎」も32歳になっていた。
 現役を退いた今も、古賀は柔の道を行く。川崎市に町道場「古賀塾」を開き、次代の三四郎の育成に汗を流している。=敬称略(志)