サッカー・渡辺正 窮地を救った同点弾
残り時間が10分を切って、スコアは0-1。1968年メキシコ五輪サッカー1次リーグ2戦目で、ブラジルと対戦した日本は追いつめられていた。決勝トーナメント(ベスト8)に進むためには、どうしても引き分けておきたい一戦。しかし刻一刻と時間は経過し、焦りが日本イレブンを覆っていく。ベンチが最後のカードを切ったのはこうした状況下で、だった。松本育夫に代えて、FWに渡辺正を投入。37歳の長沼健監督らは、負けず嫌いな熱血漢に最後の望みを託した。
決断は「吉」と出た。後半38分、左サイドから杉山隆一が上げたクロスを、釜本邦茂が頭で落とすと、すかさず突っ込んできた渡辺がダイレクトでボレー。同点に追いつく値千金のゴールだった。これで引き分けに持ち込んだ日本は、第1戦のナイジェリア戦の勝利(3-1)に続き、狙い通りの「勝ち点1」を得て、ブラジル、ナイジェリア、スペインとの1次リーグを突破。準々決勝では、エース釜本の2ゴールと、渡辺の1得点でフランスを3-1で退ける快挙へとつなげた。
続く準決勝こそ、ハンガリーに0-5と大敗したものの、銅メダルを掛けた3位決定戦で、地元メキシコに2-0で快勝して、欧州、南米以外で初のメダル獲得国となる栄誉に輝いた。この大会で6試合を戦い、9得点を挙げた日本。その内訳は、大会の得点王となった釜本が7得点、残る2点は渡辺が決めていた。銅メダルは、釜本の群を抜く活躍があってこそではあるが、ブラジル戦で敗色濃厚の終盤にピッチに立ち、見事に期待に応えた“スーパーサブ”、渡辺の同点弾の価値も特筆に値するプレーだった。
渡辺の熱血漢ぶりには、数々のエピソードも残っている。広島市立基町高校から、八幡製鉄入り。酒がめっぽう強く、毎晩のように街に繰り出しては、靴のまま寝入ることもしばしばだったとか。また、負けず嫌いから八幡製鉄を一度、退社して立教大に入学。4年後の1962年に、卒業して再び八幡製鉄に入り直すといった“荒技”も。「闘将」とも呼ばれた渡辺について、八幡製鉄の同僚だった宮本輝紀が次のような逸話を紹介している。「欧州遠征のとき、渡辺さんはろくに食べないまま食事を切り上げる。なぜだろうと思って聞くと、『オレはレギュラーじゃない。何で人並みに飯が食えるんだ』と言うんです」。日本サッカー史上に残る銅メダル。個性豊かな選手たちが集まったメキシコ五輪代表チームならではの快挙だったが、持ち前の破壊力あふれる突破から、窮地を救った熱血漢もまた、ひときわ光彩を放つ1人だった。
選手引退後、日本代表コーチ、代表監督などを歴任し、次に続く世代を育んだ渡辺は、1995年12月に59歳の若さで人生に終止符を打つ。その後、2006年に日本サッカー殿堂入りを果たした。=敬称略(昌)