プロ野球・池永正明
2005年4月、1人の男がプロ野球界に復権した。球界をかつて騒がせた黒い霧事件に関与したとして、1970年に永久失格処分を受けた池永正明の処分が解除されたのだった。
山口県下関市出身。中学時代には、百メートル、走り高跳び、砲丸投げの陸上三種目で県大会優勝。下関商業に進み、1963年の2年時にエースとして甲子園に出場し、春に優勝、夏に準優勝を果たした。
1965年、後にプロゴルファーになる尾崎将司とともに西鉄ライオンズに入団。尾崎は1964年に徳島・海南高校のエースとして春の甲子園で優勝しており、甲子園の優勝投手2人の同時入団は前例がなく、西鉄ファンの期待は高まった。
尾崎はその後、プロゴルフへ転向したが、池永は周囲の期待通り、入団1年目から20勝を挙げ、新人王に輝いた。1967年には23勝で最多勝利、入団から5年間で99勝を挙げた。オールスターにも5年連続で出場した。周囲には順風満帆の野球人生のように映った。大先輩、稲尾和久の後を継いで西鉄の屋台骨を背負い、末は300勝到達も、と騒がれた1970年。池永は一転して永久失格処分を受ける。
黒い霧事件は1969年から1971年にかけて、八百長行為に関与したとして、6人の永久失格処分をはじめ、多くの選手が出場停止や減給などの処分を受けた。池永は「八百長はしていない。西鉄の先輩から100万円を預かっただけで、いずれ返すつもりだった」と容疑を否認した。さらに八百長を持ちかけられた試合は予定が変更され、別の投手が登板していた。しかし、「不正の報告義務を怠った」として、処分はくつがえらなかった。
“天職”と思っていた野球をする術を、完全に奪われた23歳の池永は絶望に打ちひしがれた。抜群の身体能力を生かしてプロゴルフにも尾崎らから誘われたが、なにもする気が起きなかった。手持ちの金が底をついた1972年、日々の糧を得るため、福岡・中州でスナック「ドーベル」をはじめた。こうして野球との縁は完全に切れた。
だが、プロ野球のかつての仲間をはじめ、多くの者が池永を支援した。1998年には「復権を心から願う会」が発足し、署名や嘆願で池永の復権を求める運動が続いた。
「こんな日が来るとは思ってもみなかった」
処分解除の知らせを聞いた池永は感無量の思いを込めてこう語った。言葉には35年間の重みが詰まっていた。
八百長問題で角界が揺れている。その発端となったのは野球賭博。不正行為はもちろん徹底的に糾弾されるべきだが、角界浄化の過程で、第二の池永が生まれないことを祈る。=敬称略(銭)