次世代に伝えるスポーツ物語一覧

柔道・篠原信一

 運命を分けた判定は試合開始から1分42秒後に訪れた。2000年、シドニー五輪柔道100kg超級決勝。左組みの篠原信一は、右組みのドイエの内股に瞬時に反応した。股の間に放たれたフランス人の太い右足を、左足を高々と上げて透かす。そして、バランスを崩した相手を背中から畳に叩き付けた。ほぼ同時に肩から落ちた篠原は立ち上るとガッツポーズ。アトランタ五輪金メダリストの難敵を仕留めた手応えがあった。
 副審の1人は内股透かしが決まったとみて「篠原の一本」。しかし、主審と副審の残る1人は「ドイエの有効」との判定で、ポイントはドイエに入り試合は続行に。掲げた両手と、歓喜の感情は完全に行き場を失った。
 その後、一度はポイントで追いついたものの、残り45秒で内股で有効を奪われ、優勢負け。1988年ソウル五輪の斉藤仁以来、3大会ぶりとなるニッポン最重量級の金メダルは”幻”に終わった。
 「五輪は年齢的にみてもこれが最後。金メダルしかない」。27歳の篠原は、そう覚悟を決めて試合に臨んでいた。中学生の頃、背が高いことを見込まれ、半強制的に始めさせられた柔道。兵庫・育英高時代は全国的に無名だったが、親指から小指まで広さ25cmという大きな手を持つ若者は、天理大に進むと、両手できちんと組む正統派の柔道を叩き込まれ、才能が開花した。
 1999年世界選手権(英国)で100kg超級、無差別級の2階級制覇。全11試合のうち10試合で一本勝ちという圧倒的な強さを見せてシドニーに乗り込んだ。決勝の相手、ドイエには、相手の地元パリで開かれた97年の世界選手権で反則負けしていた。「審判がどうのこうの言うより、俺が投げればいい」とリベンジを誓い、夏合宿では脱水症状になるほど自分を追い込んできたのだが…。

 この”誤審”の決勝戦後、日本側は猛抗議。「一本で終わっているはずだった。相手の技を透かして投げる技術的に高度な技だ。それを見る目が審判になかった」と山下泰裕・男子監督は憤り、国際柔道連盟(IJF)の審判理事も個人的見解として誤審を認めた。しかし、選手と審判が畳から下りた時点で勝敗は確定し、覆ることはなかった。

 表彰式、投げキスをするドイエの横で、190cm、135kgの巨体は目を真っ赤にはらせ、うなだれた。「弱いから負けた。それだけです。ドイエはやっぱり強かった」と賛辞を送り、ジャッジについては「何もありません」とだけ絞り出した。そこに金色に輝くメダルはない。しかし、言い訳や批難の言葉を拒んだ姿には、柔道家としての誇りが確かにあった。=敬称略(志)