次世代に伝えるスポーツ物語一覧

レスリング・高田裕司

 流れるような技で無敵を誇り、1970年代に当時のレスリング王国・ソ連にさえ、「史上最強」と言わしめた男がいた。レスリング52キロ級の高田裕司。だが、彼の現役時代を振り返るとき、マット上の雄姿より先に、どうしても浮かぶシーンがある。

 モスクワ五輪を3カ月後に控えた1980年4月21日、東京都渋谷区の岸記念体育会館で緊急に開かれた有力選手を交えての「コーチ団会議」の席上で、その場面は起きた。旧ソ連のアフガニスタン侵攻に伴い、カーター米大統領(当時)側が五輪ボイコットを呼びかけ、日本は態度決定を迫られていた。会議は異様な雰囲気に包まれていた。

 「ボイコットなんて…。選手をオリンピックに出場させてほしい」。同席した官僚やスポーツ界の指導者らに、切々と訴える柔道の山下泰裕ら選手たち。そして高田は「何のためにこれまでやってきたのか…」と声を絞り出したきり絶句し、目頭を押さえた。後はハラハラと涙が頬を伝った…。

 「私がいるために階級を落とし、壮絶な減量と戦っている後輩の顔が浮かんだんです。すべては五輪のため。それを思うと情けなくなって…」。後に高田はこう振り返っている。

 4年前のモントリオール五輪では、7試合のうち4試合をフォール勝ち。最後の決勝でもいきなりリードを奪い、得意の外無双でひっくり返すとそのままけさ固めでフォールに持ち込んだ。そのとき22歳。まさに圧倒的な強さでフリースタイル52㌔級を制していた。もちろん続くモスクワ五輪での2連覇は確実視されていたが、結局、緊急に開かれた会議の数日後に日本はモスクワ不参加を決定する。政治とスポーツの分離は、いまもなお続く難しい問題だ。

 五輪連覇という目標を、挑戦する前に、自分ではどうすることもできない力によって閉ざされてしまった高田。26歳は不完全燃焼のまま、失意のうちに現役を退く。だが、どうにも断ち切れないレスリングへの思いに、悶々とする日々は続いた。

 「モヤモヤを吹っ切るために」復帰を決めたのは、84年ロサンゼルス五輪の半年前、30歳でのことだった。臨んだ五輪最終代表選考会。決勝の相手は、日体大の後輩にあたる佐藤満。若手の有望株との対決だったが、百戦錬磨のベテランの技が上回り、代表の座を射止める。そして迎えたロサンゼルス五輪。金メダルを期待された中で、結果は銅メダル。高田の思いは複雑だったのだろう。「佐藤に悪いことをした…」。こう吐露したという。

 それから4年。東西陣営が12年ぶりに参加した88年ソウル五輪で、見事に頂点に立ったのは、選考会で高田に敗れ、ロサンゼルスを断たれた佐藤だった。さらに高田は90年世界選手権にも出場する。実に36歳でのことだった。モスクワ五輪後に現役引退するはずが、10年も長く競技生活を続ける結果に。モスクワ五輪が狂わせた歯車はいろいろな意味で大きい。=敬称略(昌)