次世代に伝えるスポーツ物語一覧

卓球・松下浩二

 「経営をやらせてください」
 自らこう志願し、2009年12月、1人の元プレーヤーが経営難に陥っていた老舗卓球用品メーカー「ヤマト卓球」の社長に就任した。1993年に日本人として初のプロ卓球プレーヤーとなり、常に挑戦を繰り返してきた松下浩二の新たな挑戦のはじまりだった。

 愛知県豊橋市で小学3年から卓球をはじめた。プレースタイルはシェークハンドのカット主戦型。ただの受け身ではなく、隙をみつけてしばしば攻撃に転じた。桜丘高校2、3年時にインターハイでシングルス準優勝、明治大から渋谷浩とペアを組んだダブルスでは全日本選手権で2001年までに7回優勝を果たす。
 大学4年の1989年には、当時強豪を輩出していたスウェーデンのクラブリーグに挑戦した。帰国後に協和発酵に入社。社会人選手としてバルセロナ五輪にも出場したが、退社し、「卓球一筋にかけよう」と1993年から日産自動車と契約を結び、プロ卓球プレーヤーとなる。野球以外ではほとんどプロプレーヤーの存在が認められていない時代。ひとつの掛けでもあった。しかし奮起した結果、この年にはじめて、これまで何度挑戦しても破れなかったシングルス優勝の壁を、全日本選手権で越えた。1997年には渋谷とのペアで、世界選手権男子ダブルスで銅メダルにも輝く。
 松下の挑戦はとどまらない。1998年からはドイツ・ブンデスリーガに所属。ヨーロッパでは卓球は人気が高く、プロリーグが存在し、レベルは高かった。2000年にはフランス・プロリーグにも所属した。こうして常に高いレベルにもまれ、自己のレベルを保ち続けた結果、2004年のアテネ五輪で4回目の五輪出場も果たした。
 選手活動のほか、2001年にはマネジメント会社「チームマツシタ」を設立し、社長として選手のマネジメントなどを手掛けてきた。2007年に早大大学院スポーツ科学研究科に入学し、スポーツマネジメントを学んだ。
 2009年1月に引退。「チームマツシタ」の社長として、それまでの経験を生かしてマネジメント業に励んでいたところに「ヤマト卓球」の経営難を聞いた。卓球界で大きな影響力を持つ卓球用品メーカーの再建を手掛かりに、将来は日本にプロリーグを設立して卓球王国・日本の再建ができないか。マネジメント力を生かして取りつけた理容品メーカー「スヴェンソン」の財政支援策を胸に、同年9月同社を訪れ、直談判した。

 1950〜70年代にかけて世界チャンピオンを輩出した日本。以後は長らく低迷してきたが、近年では、福原愛をはじめ、水谷準、石川佳純など若手プレーヤーが台頭してきた。そこにプロリーグが設立されれば、サッカー・Jリーグのように、確実にレベルは上がるだろう。松下の挑戦にはこれからも目が離せない。=敬称略(銭)