次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ボート代表で作家・田中英光

 1932年ロサンゼルス五輪。前回アムステルダム五輪で金メダル2個を含むメダル5個を獲得した日本は、同じく太平洋に面するロサンゼルスで開催される第10回大会に、アムステルダムの3倍以上の192人の選手団を派遣した。もちろん理由があった。1940年の第12回大会を、東京に招致する方針だったためだ。首尾よく招致には成功したのだが、戦争の拡大により返上。1940年大会は開催されなかった。
 こうした背景からも浮き彫りになるように、当時の日本は国際社会で、微妙な立場にあった。ロサンゼルス五輪の前年には、満州事変が勃発。米国においても反日感情が高まっていく。そんな中での五輪派遣。日本選手団は2班に分かれ、横浜港から出港した。第1陣は6月23日出港の龍田丸。岸清一・大日本体育協会会長以下17人の役員と、陸上、水泳の男子48人が乗船し、ハワイを経て7月9日にロサンゼルスに到着した。残りは6月30日にやはり横浜港から出港した大洋丸で、第1陣と同じようなルートをたどり、7月18日にロサンゼルスに着く。そしてこの第2陣に乗っていたのが早稲田大学の学生でボート(エイト)代表の田中英光だった。
 田中が出場したボートは敗者復活戦でも敗退するなど、成績はパッとしたものではなかったが、8年後の1940年に文学界に発表された小説「オリンポスの果実」によって、田中は日本五輪史に異彩を放つことになる。小説の舞台は、日本選手団の第2陣100人余りを乗せた大洋丸。ここで走り高跳びの「熊本秋子」と出合った「ぼく」は、「秋子」に強く惹かれていく。その純粋でいちずなゆえのやるせない恋情。時代背景からも分かるように、自由にものが言えない時代に向かう中での“青春私小説”は新鮮な光彩を放ったようだ。
 31歳のときには、「端艇漕手」を発表。ボート部に入り、五輪代表になるまでの競技生活が自伝的に書かれており、身長180cm、体重70kg(五輪出場当時)という堂々たる体格を有するまさに五輪代表選手、田中ならではの作品。ただし、五輪後は波乱の生涯を送った。会社勤務、兵役、文学活動、共産党への入党と脱党、さらには愛人との刃傷事件…。太宰治に私淑し、無頼派作家として知られた田中は、以前からの薬物中毒が進み、精神に混迷を来していく。そして1949年11月3日、東京都三鷹市の禅林寺にある太宰の墓前で多量の薬と酒を飲んだ上で手首を切り、自殺。病院に担ぎ込まれたが、同夜、息を引き取った。36歳の生涯だった。

ちなみに、作家の田中光二氏は息子であり、著書「オリンピックの黄昏」で父との葛藤を描いている。=敬称略(昌)