次世代に伝えるスポーツ物語一覧

体操・塚原光男

 まさに黄金時代の真っただ中にあった。1972年ミュンヘン五輪。日本男子体操陣は、団体総合4連覇、個人総合3連覇への期待を背負い、大会に臨んでいた。開会式翌日の8月27日に行われた1日目の規定で、期待に応えるように285・05点をマークしてトップ立った日本。ライバルのソ連(当時)は282・20点で、この時点で団体総合金メダルを手中に収めたともいえた。実際、翌々日の29日の自由でも確実に点数を稼ぎ、最終種目の鉄棒で日本チームの5番目に演技を行った加藤沢男が9・70の高得点をマークし、4連覇は確定した。だが、ここからさらに会場があっと驚く光景が展開される。続く6番手で登場したのは、1947年生まれの塚原光男。演技も終盤を迎え、大車輪からフィニッシュへ。塚原の体が宙に飛び出すと、まるで宇宙遊泳するかのように舞い降りた。着地もピタリ。主任審判員が思わず満点(当時)の10・00(結果は9・90)をつけたほどの演技。ひざを抱え込んで後ろに2回宙返りする間に1回ひねる、「月面宙返り(ムーンサルト)」のデビューだった。
 3日後、種目別の鉄棒で再びこの新技を披露した塚原。着地でややぐらついたものの、9・90をマークして金メダル。2位には加藤沢男、3位に笠松茂が入り、体操ニッポンはこの大会で3度目の表彰台独占を成し遂げた。
 「人のできないことをやる」。塚原が胸に刻んだこの思いが世界を驚かせた新技の原点だった。トランポリンのハーフ・イン・ハーフという技を、鉄棒の降り技として取り入れられないか。こう「ふと思った」のがきっかけだったという。以来、戦いは始まった。トランポリンと違い、着地面は硬く、飛び出した際に、鉄棒のバーも気になる。確かな技術と恐怖心に打ち勝つ精神力が不可欠。連日の猛特訓では背中から落ちたことも度々だったという。それでも諦めず、果敢に挑み続け、約1年半をかけて完成にこぎ着けた。
 続く1976年モントリオール五輪でも新技は威力を発揮した。何とか団体総合5連覇を達成した日本だったが、種目別の序盤戦ではソ連(当時)に遅れをとった。4種目を終えた段階で、日本のメダルは銀2、銅1。対するソ連は個人総合を制したアンドリアノフが3種目で金メダルを獲得していた。だが、ここから巻き返しが始まる。加藤が平行棒で金メダルを獲得。そして鉄棒へ。まず監物永三が銀メダルを決定づけると、塚原が続いた。最後はもちろん、月面宙返り降り。9・85。種目別鉄棒2連覇を果たした。「本当に苦しい戦いでした。でも僕らにも体操ニッポンのプライドがあります。背水の陣の気持ちでした」。重責を果たした塚原は、安堵の笑みを浮かべた。
 跳馬でも「ツカハラとび」を開発するなど、豊かなアイデアで「人のできないこと」に挑んだ。そしてそんな塚原が生み出した「月面宙返り」は、その後もほかの種目で取り入れられるなど、進化を遂げている。=敬称略(昌)