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剣豪・森寅雄

 第二次世界大戦後まもなく、米国にいた日系人たちに勇気と希望を与えた剣豪がいた。森寅雄。1951(昭和26)年、38歳で出場したフェンシングの米国太平洋沿岸地区大会で優勝を果たしたこの剣豪は、1960年ローマ五輪では米国フェンシングチームの監督も務めた。異名は「タイガー・モリ」。戦前から日米間を往復し、日本にフェンシングを、そして米国に剣道を広めた剣士だった。
 森寅雄は1914(大正3)年6月、講談社の創始者・野間清治の妹ヤスの四男として群馬県桐生市に誕生した。幕末の江戸で隆盛を誇った千葉周作道場で北辰一刀流を学び、その四天王の1人といわれた森要蔵の血を引き、幼少のころより竹刀を握って剣道を始める。その後、野間清治に望まれて引き取られると、清治の一人息子の恒(明治40年生まれ)とともに育つ。講談社の社員教育の一環として野間道場を開き、剣道を奨励していた清治。その道場は昭和初年のころには剣道界にその名を広く知られており、恒と寅雄の才能も開花していった。巣鴨中学を全国大会で連続優勝に導いた寅雄は巣鴨中学卒業後、清治が経営権を持っていた報知新聞社に入社。そして1934(昭和9)年に行われた天覧武道大会の東京予選決勝で、恒と対戦する。だが、この試合で精彩を欠き、敗れた寅雄。一方の恒は天覧武道大会で優勝を遂げた。
 この敗戦に思うところがあったのだろう。寅雄は37(昭和12)年、22歳にして渡米。このとき「昭和の武蔵きたる」と騒がれたという。剣道の達人は、西洋流の剣術にもその才能を発揮する。南カリフォルニア大学でフェンシングを学んだ寅雄は、38年には全米フェンシング大会にカリフォルニア代表として出場。準優勝を果たし、「タイガー・モリ」と呼ばれた。その後、日米関係が悪化し、帰国。出場を望んでいたという40年東京五輪は返上されて、中止。その後は徴兵されて入隊した。夢敗れての戦争…に、失意も多く味わったに違いない。だが、終戦後は再び剣士としての人生を歩んでいった。明治大、中央大でフェンシングを指導。47年には日本フェンシング協会が設立され、副会長に就任した。そして七段教士となっていた寅雄は49年に再び渡米する。55年に米国剣道連盟会長となると、ローマ五輪に続く64年東京五輪、さらにその次の68年メキシコ五輪でフェンシング米国チームのコーチを務めた。その傍ら、証券会社を退き、67年にはビバリーヒルズに「モリ・フェンシング・アカデミー」を設立し、後進の指導に尽力する。そして69年、剣道の稽古中に心臓発作を起こし、54年の生涯を閉じた。選手として五輪への出場はかなわなかった。だが、その教え子たちは日米に広がり、思いは脈々と受け継がれている。70年には第1回世界剣道選手権が開催され、2008年北京五輪では太田雄貴がフェンシングで銀メダルを獲得した。我がことのように寅雄は喜んだに違いない。=敬称略(昌)