次世代に伝えるスポーツ物語一覧

プロ野球・江夏豊

 なにから書けばいいのか-。とにかくすごい記録を数多く残した。「シーズン401奪三振」「オールスター9者連続三振」「江夏の21球」「たった1人の引退式」。いずれもそれだけで記事が成り立つ、記憶に鮮やかな内容である。それが江夏豊であった。
 1966年に阪神に入団。1967年には高卒ルーキーながら、剛球左腕として225奪三振でシーズン最多奪三振を記録。そして翌年の1968年には、シーズン401奪三振という、いまだに破られることのない世界記録を打ち立てた。9月17日の巨人戦で、当時の日本記録であった稲尾和久の353奪三振を抜き去ったが、タイ記録と新記録達成は、当時のスーパースターであった王貞治からいずれも奪った。新記録達成の際、王の打席までの8人の打者に対して三振を取らないように投げ分けた。奪三振王はその後も1972年まで6年連続で記録した。
 1971年7月17日のオールスター第1戦では先発。当時のパリーグの強打者、有藤通世、江藤慎一、土井正博ら9人を見事9者連続三振に切って取った。後続のセリーグの投手も触発されて好投を続け、計5人の投手によってパリーグをノーヒットノーランに沈めた。江夏自身は、1973年に延長11回までのノーヒットノーランを記録した。延長戦までのノーヒットノーラン記録は現在に至ってもまだない。
 血行障害などで長いイニングが投げられなくなり、下り坂にさしかかってきた江夏は1976年、南海へ放出される。しかしここで野村克也選手兼監督と出会ったことで後のリリーフエースの道が開かれる。短いイニングならばいまだ十二分に通用した。リリーフがまだ認められていなかった時代だが、「革命を起こそう」との野村の言葉に動かされ、リリーフ投手に転向。1977年には早くも最優秀救援投手となった。
 野村の退任とともに、1977年のオフに広島へトレード。そして1979年の近鉄との日本シリーズ最終第7戦で、作家の山際淳司が後に書いて有名となった短編「江夏の21球」の場面を迎える。一点リードの9回裏。7回からリリーフをはじめた江夏は先頭打者にヒットを打たれ、瞬く間に無死満塁のピンチを迎える。しかし、投球動作に入っていながら、江夏はスクイズを察知して巧みに外し、無得点に抑えきり、広島を優勝へ導いた。
 その後、日本ハム、西武と渡り歩き、1984年に引退。しかし所属したどこの球団も引退式を開こうとしなかったため、雑誌「Number」主催で、多摩市一本杉公園野球場で異例の有志による引退式が開かれた。2万人ものファンや多くのプロ野球選手・OBが参加。球団主催の公式なものよりも、男冥利に尽きる引退式であった。
 その後はメジャー挑戦や覚せい剤取締法違反による服役と耳目を掻き立てたが、現在も解説者などで大好きな野球と関わる“野球人”であり続けている。=敬称略(銭)