次世代に伝えるスポーツ物語一覧

プロ野球・王貞治

 世界の王-。

 この一言に彼のすべてが含まれているように感じる。あえて数字を挙げていけば、世界最多記録となる本塁打868本をはじめ、13年連続を含む15回の本塁打王、8年連続を含む13回の打点王、3年連続を含む5回の首位打者、通算四球2390個、ダイエー監督として2回の日本一、日本チーム監督として2006年のWBCでの世界一…。日本が誇るスポーツ選手の頂点に立つ人物と言っていい。

 だが、そこにたどり着くまでの道のりは決して平らではなかった。いくつもの壁にぶつかり、ときにはみえない糸が導きながらも、多くの場合は壁を乗り越えるために常人を越える努力をしてきたのだった。

 最初の壁は、高校受験だった。第一志望であった都立墨田川高校に落ちた。その結果、早稲田実業へ進み、1年からエースとなり、2年選抜時には甲子園で優勝した。墨田川高校には当時硬式野球部はなく、もしも合格して進んでいれば、世界の王、は誕生していなかったかもしれない。

 甲子園を沸かせた高卒ルーキーとして激しい争奪戦の末、1959年に巨人へ入団。しかし、プロの壁は厚かった。投手としての入団であったが、水原茂監督ら周囲から「投手としてはパッとしないが、打撃は非凡」と言われ、打者に転向。国鉄との開幕戦を7番一塁手として迎えた。しかし、ここでもプロの壁に遮られた。国鉄エースの金田正一に2三振1四球に抑えられ、その後26打席ノーヒットが続いた。同年6月25日の天覧試合では長嶋茂雄との初のアベックホームランを放ったが、この年の成績は打率1割6分1厘、本塁打7本、打点25点という寂しいものだった。その後も2年目は2割7分、17本塁打、3年目は2割5分3厘、13本塁打と伸び悩んだ。

 1961年シーズンオフに荒川博が打撃コーチとなり、マンツーマンの猛練習がはじまった。さまざまな打撃フォームを試し、シーズンに挑んだが、成績は伸び悩んだ。そして7月1日の大洋戦を迎える。「一本足打法で打ってみろ」。荒川コーチの指示に従ったところ、5打数3安打4打点の活躍となった。その後も一本足打法で本塁打を量産。その陰で猛練習を積み、そのために畳がすり減ってささくれ立ったという。

 1964年にはシーズン最多となる55本塁打を打ち立て、その後も首位打者を獲得するなどした。しかし、1971年後半から翌年まで極度のスランプに陥った。二本足打法へ戻すことも勧められたが、一本足打法にこだわり続けてひたすら練習に努めた。その結果、スランプからついに脱出。1973年と1974年には2年連続3冠王という偉業を達成した。

 世界の王ですら、山だけでなく、谷もたっぷり味わっている。=敬称略(銭)