次世代に伝えるスポーツ物語一覧

体操・具志堅幸司

 「体操ニッポン」の勢いに陰りが見えていた。1976年モントリオール五輪まで5連覇を遂げていた男子団体総合。だが、1984年ロサンゼルス五輪で、不参加だった80年モスクワ五輪で途絶えた金メダル奪還に挑んだ日本は、米国、中国に次ぐ3位に終わった。ライバルのソ連(当時)が不参加の中での”敗戦”に、落胆は大きかった。個人種目にも波及しかねない嫌な流れを押し返し、団体総合での屈辱を晴らしたのが、27歳(当時)の具志堅幸司だった。

 1956年11月生まれ、大阪府出身。清風高校、日体大と体操の名門を歩んで実力を磨いたが、決して順風といえる歩みではなかった。日体大3年の時には、つり輪の練習中に左足首を複雑骨折。医師からは「競技生活続行は不可能」と宣告された。ショックで2、3日は口もきけないほどに落ち込んだという。だが、時間とともに「絶対に再起してみせる」と闘志がわいた。ベッドに寝たまま鉄亜鈴でトレーニングするなど、一心に再起を目指して復帰。だが、翌年、今度は床運動の練習中に右アキレス腱断裂の大けがに見舞われる。度重なる試練に、さすがにくじけそうになったという具志堅。このとき、高校時代の恩師からの一通の手紙が、心に火を点けた。

 「やめたければやめなさい。しかし、こういうケガを克服してこそ、精神的に強くなれる」

 確かに大きな困難を乗り越えたからこそ、より大きな力が宿る器が育まれたのかもしれない。団体総合での持ち点に決勝6種目の得点を加えて争われる個人総合決勝は、タイトル獲得は無理とみられた5位から逆転でつかんだ勝利だった。首位のビドマー(米国)に一時、0.175点差をつけられた具志堅だったが、団体総合で得た教訓から「難度を落としても着地を完璧にした方がいい」という戦略をとって猛追。5種目を終えて逆に0.025点上回り、最後の床運動で後方抱え込み2回宙返りを決めて9.90点。加藤沢男以来、実に12年ぶりに日本勢が個人総合の頂点に立った。さらに、つり輪でも個人総合3位の李寧(中国)とともに9.95点の高得点をマークして金メダルを獲得。跳馬の銀メダル、鉄棒と団体総合の銅メダルを合わせこの五輪で計5個のメダルを手にした。

 試合では、あがるタイプだったという具志堅。そんな彼を落ち着かせたのも高校時代の恩師の教えだった。「金メダルを取ろうと思わず、能のように神に捧げるつもりで演技すればいい」。そして「ハルチ、ウムチ、ツヅチ」という特別のおまじないも伝えられ、大舞台では、このおまじないを口にして心を落ち着けたという。
 鉄棒、平行棒など6種目をこなす個人総合では、鍛え抜かれた肉体はもちろんのこと、精神的にもタフでなければ戦えない。恩師の言葉はしっかりと教え子の気持ちを支えた。現役引退後、コーチ、監督となった具志堅。指導者としてもロンドン五輪に向けたエース内村航平らを育成するなど、「体操ニッポン」の”伝統”である「美しい体操」の継承に、力を注いでいる。=敬称略(昌)