次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2011-10-31

テニス・松岡修造

2011年10月31日

 1995年7月3日。イギリス・ウィンブルドンで、男が感極まってコートを駆け回り、相手選手と握手した後、大の字に横になった。日本男子として1933年の佐藤次郎以来となるベスト8進出を決めた松岡修造だった。傍から見れば何不自由ないサラブレッド。しかし常に逆境へ身を置き、さらに人一倍の挫折をくぐりぬけてきた男の喜びがそこには詰まっていた。
 1967年、東宝名誉会長の功と元宝塚スターの静子の次男として、東京で生まれる。慶応幼稚舎(小学校)2年でテニスをはじめ、中等部で才能を開花させる。慶応高校に進んだが、伸び悩んでいた自分に逃げ場を与えないため、猛練習で知られる名門・柳川高校へ転校。高校2年の高校総体で単・複・団体の三冠を達成し、高校生の頂点に立った。
 普通であれば卒業後に進学かプロの道へと進むだろうが、松岡は3年時の欧州遠征で有名コーチ、ボブ・ブレッド氏と出会ったのをきっかけに、柳川高校を卒業前に中退。渡米し、フロリダのテニスキャンプでブレッド氏の指導を受ける。
 ブレッド氏の指導方法は、長所を徹底的に磨けば後は付いてくるというもの。
 「得意なサーブをもっと鍛えろ」
 爆発的な破壊力を持つサーブに引っ張られるように、ボレーとストロークも次第に上達していく。1988年には世界ランキング100位の壁を破った。
 しかし、1989年に両膝の半月板を損傷し、2度の手術を受ける。リハビリを乗り越え、復帰を果たすが、翌年のセイコースーパーテニスで転倒、足首のじん帯断裂の大けがを負う。苦行とも言えるリハビリを続け、再びコートへ舞い戻り、1992年4月の韓国オープンでは、日本人初のATPツアーシングルス優勝を果たす。この年は生涯自己最高ランクとなる46位を記録する。
 だが、再び試練が襲いかかる。同年末に感染性単核球症にかかり、3か月もの療養を余儀なくされる。その後復帰するが、低空飛行が続き、引退もささやかれ始めた。だが、運命の女神は松岡を見出した。1995年のウィンブルドンで、欠員が出たことによる偶然の本選出場が回って来た。優勝したピート・サンプラスにベスト8で敗れたが、日本男子62年ぶりの快挙を成し遂げた。
 1998年4月のジャパンオープンを最後に現役を退くが、すぐにジュニア育成のためのトーナメントを立ち上げ、テニスクリニックの開催などに取り組み始めた。現在、世界で活躍中の錦織圭は松岡のキャンプから巣立っていった。松岡の活動は今でも日本テニス界に光を与え続けている。=敬称略(銭)