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2014-5-14

「野球よりサッカーを」サッカーの普及に貢献した嘉納治五郎

 嘉納治五郎翁と言えば、柔道の創始者として知らぬ人はいない。その嘉納さんが若いころ一番楽しんだのは、アメリカから渡来したばかりのベーすぼうるだった。「自分がベースボールの選手だったと言ったら不思議がろうが、そのころ自分はピッチャーであった」と書き残している。それは開成学校(のちの東京大学)に入学した明治8(1875)年当時。同校の米国人教師、ホ―レス・ウイルソンが日本人生徒に初めて野球を伝えてからまだ2年しかたっていなかった。野球だけでなく種々の西洋スポーツが流入していた「以前からいろいろの運動もやってみた。器械体操も少しやった。駈けっこもやった。船も漕いだ。最もよくやったのはベースボールであった」。草分け時代の万能スポーツマンだった嘉納さんは、日本人に体育、スポーツを広める役割を生涯を通じて自らに課した。

 国が富国強兵に懸命だった時代、西洋スポーツは国家の富を増進しない非生産的な遊戯と見られ、軽視された。一部学生の間でボート、陸上、野球などが行われたものの、一般学生はあまり運動をしたがらなかった。

そこで、30代前半の若さで東京高等師範学校(筑波大の前身)の校長に就任した嘉納さんは軍隊式の学校運営を改めるなど、時の文部大臣と衝突をしながら、さまざまな改革に乗り出す。その一つが身体を動かす運動の推進である。全学生に放課後1時間の運動部活動をさせ、水泳大会、長距離大会に参加させた。どこの学校にも前例がなかった。柔道部(明治27年創部)をはじめ、器械体操部、ローンテニス部、ベースボール部、フートボール部、ボート部、自転車部、ラ式フートボール部など約15の運動部を設けた。卒業した学生は全国の学校に散って運動普及に就いた。

 嘉納さんは多くの国民が運動を趣味とし、習慣的に身体を動かすことを願い、場所や用具を選ばない競技を推奨した。陸上と水泳で、柔道、剣道も加えられた。その中で興味深いのは、屋外スポーツの大切さを説く一方で、自らピッチャーでならした野球については「少数の芸人興業人を作る弊風あり」として排除するように変わっていたことである。

 これについては、新渡戸稲造(一高)や乃木希典(学習院)ら校長をインタビューして連載された東京朝日新聞の「野球とその害毒」(明治44年)の影響があると思われる。ブルジョア的な西洋文化とみなされた野球の大衆人気、隆盛を弊害とする時代になっていた。日清、日露戦争に続いて第1次世界大戦に出兵した国は、兵士の体格・体力を強化する必要に迫られていて、それを学校体育に求めるようになった。「ナポレオンの欧州統一を挫折させたワーテルローにおけるウエリントンの勝因は英国の学校の運動場にあった」(大正2年。文学士・野田義夫著「欧米列強 国民性の訓練」)とする意見も現れた。それまで無益な遊戯としていたスポーツを、英国国民のたくましい身体を生んだ有益なものとして理解したのである。

 この機運の中で野球に対抗する存在としてにわかに注目されたのがサッカーだ。サッカーは野球と同じ明治6年に英国海軍によって伝えられたものの、その後の発展は明暗が分かれて、人気、普及度ともに野球の比ではなかった。野球害毒論の記事で、新渡戸校長は語る。「野球は巾着(きんちゃく)切りの遊戯である。相手をペテンにかけよう、ベースを盗もうなどとする。米人には向くが、英人には向かない。蹴球のように鼻が曲がっても、球にかじりついている勇剛な遊びは米人にはできぬ」。軟弱卑劣な野球より、剛直なサッカーを若者にさせたい強い意向が感じられる。この頃、大日本体育協会会長でもあった嘉納校長の要請で東京高師(高等師範)教授陣が中心となり、大日本蹴球協会が設立されたが、その設立趣意書は「堅実な国民性の偉大な英国の国技がわが国で発展が遅いのはなぜか」といらだちをにじませる。英国大使が名誉会長に就任した。野球とサッカーは日英同盟、世界情勢と国の思惑の中で翻弄されていた。それはともかく、今日の人気につながる日本サッカーの宗家は東京高師であり、嘉納さんは柔道だけでなく、サッカーとの縁も深いのである。

 嘉納さんはクーベルタン男爵の要請で日本初の国際オリンピック委員会委員になった。「若者を惰(だ)弱にせず、元気に生活させるには体育に限る」。これが委員就任と五輪参加の目的だった。欧米の五輪に「日本精神を吹き込むことで世界のオリンピックにしたい。日本精神で鍛えた選手が世界の模範となり優勝をすることで実現したい」と大きな夢を抱きつつ、招致に成功した1940年東京五輪(戦争で返上)を見ぬまま世を去った。それから76年。ソチ冬季五輪に続き、間もなく始まるW杯サッカーで日本の活躍が見られることだろう。嘉納さんは日本の体育、スポーツの線路を敷いた偉大な先人である。

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渡部 節郎

1946年生まれ 岐阜県出身

[ 経歴 ]

早稲田大学政治経済学部経済学科卒

㈱毎日新聞社入社。スポーツ取材約35年。

プロ野球、社会人野球など野球全般。

1988年ソウル五輪では主に陸上競技を担当、

1992年バルセロナ五輪では特派員団統括デスクとして現地取材。

渡部節郎さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。

S-JOB(エスジョブ)公式サイト