柔道・斉藤仁
2011年10月17日
窮地に立たされていた。1988年ソウル五輪。柔道全7階級のうち「4階級で金」を目標に掲げながら、6階級を終えて銅メダルが3つ。創始国としてこのままでは終われない。おのずと最後の砦、斉藤仁への期待は高まっていった。
極度の不振には要因もあった。柔道会場の雰囲気がその一つで、日本選手が登場しただけで強烈なブーイングが起きるほど、韓国一色の異様な空気に満たされていた。五輪連覇を目指したトップバッターの細川伸二が準決勝で微妙な判定に泣いたのをはじめ、若手の岡田弘隆、古賀稔彦らも持てる力を発揮できずに敗退。 “流れ” を完全に失った。そして、残るは前回ロサンゼルス五輪金メダリスト、95キロ超級の斉藤だけという状況に追い込まれた。
「実は、みなさんが思われるほどプレッシャーはありませんでした。プレッシャーを感じるより、自分の右膝の状態の方が心配だった。 “ケガの功名” というやつですね」
事実、斉藤の下半身はガタガタだった。現役時代、一度も勝てなかった山下泰裕の引退後、ポスト山下として期待されながら相次ぐケガに泣かされた。1985年の世界選手権(ソウル)では左肘を脱臼して2位。1987年には右膝を手術し、柔道をあきらめかけたことも…。それでも畳に戻ってきた。五輪年に悲願の全日本初制覇を果たして復活。だが、右膝は完調にほど遠く、いわば “爆弾” を抱えたままだった。
「今できることをやるだけ。内容よりも勝負」。迎えた本番では危険が伴う投げ技は極力避け、前に出て相手を押しまくる柔道。準決勝、決勝とも見せ場は少なかったが、斉藤の気迫が勝利をもたらした。期待に見事に応える五輪連覇、日本の “全滅” を防ぐ金メダルだった。
「よく “斉藤の豪快な柔道が消えてしまった” と言われました。自分でもあの柔道は不本意です。でも、あの体調の中では精一杯だった」と後に振り返った斉藤は、「ロスでは世界一といっても、日本では山下さんの次の二番でしたから。ホントの意味での感激は、やっぱりソウルの方が上でしたね」。
1961年、青森県生まれ。中学生で柔道を始め、ついにつかんだ正真正銘の頂点だった。その思いは、表彰台の真ん中で、クシャクシャになった顔から、ぬぐってもこぼれ落ちた涙が示していた。五輪の翌年に引退。その際、「100パーセント稽古できないやつは試合に出る資格はない」との言葉を、自らに向けた。膝は限界に達していた。=敬称略(昌)