外交官ランナー・岡崎勝男
2011年9月27日
外交官でありながら五輪出場を果たし、後に政治家となり、外相、そして国連大使まで務めた”アスリート”がいる。岡崎勝男。1924年パリ五輪に出場した際には、すでに外交官だった。
1897年7月、神奈川県に生まれ、1922年東京帝大経済学部を卒業して外務省に入省。翌1923年に英国に着任した岡崎は、陸上中長距離の実績が認められてパリ五輪の日本選手団に加えられた。
パリ五輪は日本にとって3度目の五輪。もちろん参加すべく準備していたのだが、前年の1923年9月1日に関東大震災が発生し、被害が甚大だったため、派遣母体の大日本体育協会は選手団を派遣するか悩んだという。それでも最終的には五輪への参加を決め、選手は各競技団体の予選または推薦で決定された。参加選手は19人。陸上8人、水泳6人、レスリング1人、テニス4人だった。
岡崎は陸上5000メートルに出場。絶好調だった外交官ランナーは予選を2位で突破して決勝に進み、メダルの期待さえ抱かせた。ところが、とんでもないハプニングが岡崎を襲う。履き慣れたスパイクシューズを、ゴミと勘違いされて捨てられてしまったというのだ。急いで代わりのスパイクを調達したものの、すぐに足になじむはずもなく、決勝は結局12位に終わる。このパリで、三段跳びに6位入賞し、続く1928年アムステルダム五輪で日本人初の金メダリストとなる織田幹雄が「長距離の選手なのにスピードがあって、400メートルもこなした人でした」と振り返ったというほどのスピードを合わせ持つランナーだっただけに、もしも万全の状態で決勝を走っていれば…。残念でならない。
こうして五輪では”悲運”に泣いたが、その後の岡崎は外交官として大成していく。1945年、外務省調査局長だった岡崎は、終戦連絡中央事務局初代長官としてマニラに派遣され、終戦連絡中央事務局長官となる。そして9月には重光葵全権の随員としてミズーリ号上での降伏文書調印式に参加した。外務事務次官を最後に退官し、1949年2月の総選挙に出馬して当選。吉田内閣(第3〜第5次)で外相を務め、外交官出身政治家として日米協調を基調とする吉田外交の推進者となり、衆院議員を3期、後には国連大使としても活躍した。1965年10月10日に死去。その日はアジアに初めて聖火がともった東京五輪開会式の、ちょうど1年後のことだった。=敬称略(昌)