次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2011-9-6

マラソン・孫基禎

2011年9月6日

 暑い日だった。1936年8月。スタートした午後3時の気温は30度。前回覇者のサバラ(アルゼンチン)が引っ張るペースも速く、27カ国から参加した56選手に脱落者が目立ち始めた。ベルリン五輪でのマラソン競技。23歳の孫基禎の心境は「入賞できれば…」という思いだったという。ところが、30キロ過ぎにサバラまでが倒れ、気がつけばトップに立っていた。
 「自分が苦しい時は人も苦しい」。小学校時代、長距離走者としての才能を見いだしてくれた恩師の言葉が、頭にこだました。歯を食いしばってのゴール。2時間29分19秒。アジアの選手として初めての五輪マラソン優勝は、五輪新記録での快挙でもあった。3位には同じ朝鮮半島出身の南昇龍が入った。
 韓国が日本に併合された「日韓併合」の翌々年、1912年8月に中国国境に近い新義州に生まれた。1926年には自宅が鴨緑江の洪水で被害を受けたこともあって勉学を中断。働くことを余儀なくされたが、長距離走者としての資質は次第に注目されるようになっていく。そして19歳で、陸上の名門でもあった京城(現・ソウル)の養正高等普通学校(高校)に進学。在学中の1935年に明治神宮大会で2時間30分を切るという大記録で優勝したことがベルリン五輪への道を開いた。
 表彰式。孫には勝った喜びとは裏腹の硬い表情があった。日本では五輪マラソンに初出場した金栗四三以来の「宿願なる」と号外が舞った。朝鮮で発行されている「東亜日報」も、もちろん孫の活躍を詳報した。しかし、東亜日報はユニホームの胸にあった日の丸を消した孫の写真を掲載。その後、10カ月の発行停止などの処分を受けた。いわゆる「日章旗抹消事件」。この事件はその後も尾を引いた。こうした騒動に思うところがあったのだろうか…。五輪後、孫は明治大学に進んだが、陸上部には所属しなかった。

 しかし、大韓民国建国後は陸上のコーチはもちろん、大韓体育会副会長、韓国陸上連盟会長などを歴任。地元開催となった1988年ソウル五輪では組織委員会委員を務めたほか、開会式では聖火ランナーとして聖火をスタジアムに持って登場した。「祖国での五輪」。孫は、ベルリンで金メダルを獲得したときよりも、このときの方がうれしかったという。政治や戦争に翻弄された孫だったが、それでも日本の知り合いや友人たちとは交流を続け、日韓の架け橋にもなっていたという。=敬称略(昌)