次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2013-7-22

ボクシング・河野公平

2013年7月22日

 2012年12月31日。引退の危機にあったボクサーが一転、鮮烈なKO勝ちを演じ、王座をつかみ取った。河野公平、32歳。3度目の世界挑戦となった世界ボクシング協会(WBA)スーパーフライ級タイトルマッチでのことだった。
相手は、テーパリット・ゴーキャットジム(タイ)。下馬評は圧倒的に不利。それでも愚直に前に出た。この強気の姿勢が4回、実る。短い左フックが炸裂すると、たまらず崩れ落ちる王者。河野はさらに突進して再びダウンを奪う。そしてロープ際で連打。レフェリーが試合終了を告げた。
 「最高にうれしい。本当に努力は裏切らないと信じてやってきて良かった」
 1980年11月、東京都目黒区生まれ。ボクシングを始めたのは、陸上部に所属していた高校時代に、「6カ月でプロボクサーになる」という本を読んだことがきっかけだった。ほどなく母親の反対を押し切ってワタナベジムの門をたたいた。2000年11月にプロデビュー。初戦は判定負け。「負けたら辞める」と臨んだ2戦目に勝利して王座へと続く”階段”を上り始めた。
2007年2月に日本スーパーフライ級を、同年10月には東洋太平洋同級王座を獲得した。世界挑戦の機会が訪れたのは翌年9月のことだった。WBAスーパーフライ級王座決定戦。だが、初挑戦は、名城信男に判定で屈した。さらに2年後の2010年9月、世界ボクシング評議会(WBC)同級王座決定戦に挑むも、トマス・ロハス(メキシコ)にやはり判定で敗れた。その後、日本タイトルの奪取に失敗し、プロ3戦目の若手にも敗北を味わった。「毎日のように辞めようかと悩んでいた」。そんな苦しい時期を経て、2012年3月、「負けたら引退するので、最後に世界ランカーと勝負させてください」と直訴した。その後、世界ランカーに勝ったことで、3度目の世界への挑戦が実現した。
 テーパリット戦に向けて、短いパンチを磨いた。ダウンを奪った左フックもその成果だった。「狙って打ったというより自然に体の流れで出た」とうなずいた。家族の支えも大きかった。デビュー戦で黒星を喫した後に、ボクシング経験のない父親が自宅で練習できるようにと、リビングに可動式のサンドバッグをつるしてくれた。時間があれば、ミットを手に練習にも付き合ってくれた。「ここまで来られたのは父と母のおかげ」。王座を獲得した河野がこう涙交じりに感謝の言葉を絞り出した理由だった。
 5月6日の初防衛戦では再び苦い思いを味わわされた。リボリオ・ソリス(ベネズエラ)にまたも判定負け。「ジャッジが向こうびいきだったと思う。悔しい。(今後については)しばらく何も考えたくない」と唇を引き結んだ。夢を追い続け、ひたむきな努力で引退の瀬戸際から頂点に立ったボクサーは、今回の”危機”に際して、どんな決断をするだろうか-。=敬称略(昌)