次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2013-6-25

陸上・伊東浩司

2013年6月25日

 速報表示に数字にスタジアムがどよめいた。
 「9秒99」
 1998年12月13日、タイ・バンコクで開かれた第13回アジア競技大会、男子100m準決勝。フィニッシュラインを駆け抜けた伊東浩司は喜びを爆発させ、小躍りを繰り返していた。
 アジア人が初めて10秒の壁を破ったか―。興奮が渦巻く中、ほどなくして速報との誤差から公式記録は「10秒00」に訂正。たちまち会場は、ため息に包まれた。
 日本記録とアジア記録の保持者となった28歳は「今大会は勝つことが大事なので、14日の決勝に向けて体力温存を図っていた」と語ったのだった。
 実は元々、400m主体の選手だった。転機は社会人1年目で迎えた1992年のバルセロナ五輪だ。代表最終選考会の日本選手権400mで5位。1600mリレーのメンバーに滑り込んだが、五輪本番は補欠に回った。東海大時代に腰痛で伸び悩み、五輪出場を機に引退も考えていた。それが出番なしの屈辱の結末。現役続行の腹が固まった。
 この五輪で東海大の先輩である高野進が400mで決勝に進出した。当時31歳だった高野がファイナリストになれたのは、遠回りを覚悟で100m、200mでスプリント力を鍛えてきたからだった。それを知った22歳の伊東は翌年から400mを捨て、100mと200mに本格的に取り組み変貌を遂げていく。
 伊東の走りの特徴は、足の運びにあった。太ももを高く上げるのではなく、ひざを前に運ぶ。そして、体重移動を限りなく地面と水平にする走法だ。並のランナーなら、上体が反っくり返ってしまうところだが、彼は後背筋と太ももの裏側をじっくり鍛えてきたため、前傾で走ることができた。
 トラック練習は1日30分から1時間ほどに抑え、5〜6時間をウェイトトレーニングに費やした。バルセロナ五輪からの6年間で、腰回りは88cmから102cm、太ももも54cmから62cmに。地道な積み重ねが遅咲きのスプリンターを開花させたのだった。
 その後、10秒の壁を越えることは叶わなかった。あのゴール直前、翌日のために力を緩めたことで0秒01、距離にしてわずか10cmの差で9秒台に届かなかったまま・・・。「記録は全然、考えていなかった。セーブしなければ、もうちょっといったかもしれないけど」。15年近く日本記録として残る快走には、かすかな苦い思いが残っている。=敬称略(志)