レスリング・加藤喜代美
2013年5月14日
誰にでも弱点はある。ともすればそうした弱点とは向き合いたくはない。忘れて過ごしたい。それでも弱点と向き合わなければ、手にできないものがある。克服しようと努力していく過程の先に、メダルもある。1972年ミュンヘン五輪レスリング男子52キロ級(旧フライ級)代表の加藤喜代美にも弱点があった。スポーツ選手にとっては致命的な資質ともなりかねない消極性がそれだった。全日本選手権で4連覇(1968〜71年)を果たした逸材だが、五輪前年の1971年世界選手権で、その弱点が出てしまった。積極性を欠き、終始守勢に回っての6位。期待はずれの結果に「攻めないで負けてきやがった」「選考会で勝っても五輪には出さない」―。周囲の声は厳しかった。
当時、レスリング王国だった日本。さらに、この階級ならではの重圧も大きかったのかもしれない。東京五輪の吉田義勝、メキシコ五輪の中田茂男が頂点に立ち、ミュンヘンでは日本勢3連覇がかかっていた。期待の種目。当然、周囲の批判の声は耳に入ってきた。追い詰められ、悩み、力を発揮できないまま競技から遠ざかってしまってもおかしくはない状況だっただろう。だが、加藤は奮起した。消極性を批判する声に対し、雪辱の思いを胸に刻んだ。「『おまえは積極的でないからダメだ』というけど、そんなことはない。ミュンヘンでは死にものぐるいでやる。ちくしょう」と。
6月の代表選考会を兼ねた全日本選手権で、別人のように猛烈な攻撃レスリングを見せて五輪代表の座を勝ち取った。迎えた五輪本番。加藤自身が「つらかった」と振り返った1回戦が大きなヤマ場だった。相手は世界王者のゴルバニ(イラン)。しかし、ひるまずに果敢な攻めでフォール勝ち。これで波に乗った。6回戦で対戦したシャルナク(ルーマニア)も前年の世界選手権で加藤がフォール負けを喫した難敵だったが、やはり積極性を見せて雪辱。決勝リーグでもキム(北朝鮮)、アラクベルディエフ(当時ソ連)を退けて金メダルを獲得した。試合会場に終了のブザーが響き渡ると、「やったぞ!」と叫びながら、マットの上で飛び上がる加藤の姿があった。
1948年3月生まれ、北海道旭川市出身。旭川商業から専修大に進んだ加藤には、もう一つ、ミュンヘン五輪を巡るエピソードがある。試合後、金メダルを一番喜んでいるのは?と聞かれ、「婚約者です。体育の日に結婚します」と答えた。五輪前年に大学を卒業した加藤。在学中に専修大の同級生で卓球部の平野美恵子さんと婚約したが、ミュンヘンを目指し、結婚を「金メダルを取るまでは…」と延期していたのだ。2人分の思いが、つらかった”試練のとき”を支えた原動力になっていたのかもしれない。=敬称略(昌)