次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2013-4-8

ラグビー・松尾雄治

2013年4月8日

 観客席に何本もの大漁旗がはためくなか、仲間に肩車された背番号10が、右手を上げて大歓声に応える。1985年1月15日、国立競技場。ラグビーの日本選手権で、新日鉄釜石がついに、前人未踏の7連覇を達成した。その中心には常に、松尾雄治がいた。
 明大3年時にSHとして日本代表キャップを獲得したラグビーエリートは、その直後にスタンドオフにコンバートされ、さらに才能が開花。4年生のときにはチームを大学選手権優勝、そして初の日本選手権優勝に導き、鳴り物入りで新日鉄釜石に入社した。
 新日鉄釜石は、東北地方の高卒出身者を中心にみっちりと鍛え上げられたチーム。そこに、大学ラグビー界でもずば抜けたラグビーセンスを持つ松尾らが加わったことでチーム力が一気に上昇した。入社1年目の1976年度に日本選手権優勝を果たすと、その2年後から7連覇が始まる。巧みなステップに、キック、パスを自在に操る松尾が攻撃を組み立て、FWとバックスが一体となって攻める”15人ラグビー”は見る者の心を引きつけた。チームは”北の鉄人”と呼ばれ、1月15日の国立競技場で岩手県釜石市から駆けつけた応援団が大漁旗を振る様子は、風物詩のようになっていった。

 最も劇的だったのは、最後の日本一となった1984年度。このシーズン限りでの引退を表明していた松尾は痛めた左足首を手術し、当日まで入院。試合前の練習も行うことができない状態での出場だった。相手は平尾誠二らを擁し、大学選手権3連覇を達成した同志社大。一時は6-13とリードされたものの、徐々に地力を発揮して後半に入ると逆転。31-17で同志社大を下した。
 新日鉄釜石は2001年に企業チームとしての歴史に幕を閉じ、釜石シーウェイブスというクラブチームに生まれ変わったが、「釜石の顔」として市民に愛される存在であることに変わりはない。東日本大震災で大きな被害を受けた地域を勇気づけるべく、トップイーストリーグからトップリーグへ昇格すべく、奮闘している。そして、松尾はシーウェイブスの支援組織「スクラム釜石」のキャプテンとして、”第二の故郷”の復興を目指している。=敬称略(謙)