次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2013-4-1

競泳・宮崎康二

2013年4月1日

 「トビウオジャパン」の愛称を持つ競泳日本代表。名前の由来となった「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進はもちろんのこと、数多くの名選手を輩出してきた日本競泳界でも「水泳ニッポン」を世界に印象づけた五輪といえば、1932年ロサンゼルス大会が挙げられる。この五輪で日本は全競技で7つの金メダルを獲得したが、そのうち5つが競泳。中でも15歳の宮崎康二の活躍は特筆すべきものだった。
 男子100m自由形決勝は、1932(昭和7)年8月7日に行われた。会場には米国に移住していた在留邦人を含めて約2千人もの日本人がつめかけたという。決勝の舞台に立った6選手は、日本選手3人、米国選手3人。日米対抗のような顔ぶれの中、スタートとともに飛び出したのは、3コースのトムソンだった。後続はほぼ一線。40m付近から宮崎が追い上げ、差を詰めていく。60mを過ぎてスパートした宮崎は、残り30m付近でトムソンを捕えると、そのまま抜き去ってゴール。ジョニー・ワイズミュラー(米国)の記録を破る58秒2の五輪新記録(当時)で金メダルを獲得した。さらに、少し遅れて2位に入った河石達吾も58秒6の五輪タイ記録をマーク。この種目で圧倒的な強さを発揮してきた米国勢を抑え、米国の連勝を6でストップさせたとあって、詰めかけた日本応援団はまさに興奮のるつぼと化した。
 1916年10月生まれ、静岡県湖西市出身。浜松一中(現・県立浜松北高校)4年で五輪に出場し、快挙を演じることになる青年は当時を「負ける気がしなかった」と回想している。身長179cm、体重66kgの恵まれた体格。さらに、15歳とは思えない冷静なレース運びを見せた宮崎。その泳ぎ通りに「記録は実力だが、試合は別。世界記録保持者を相手にしても勝つ道がある」。こう思っていたという。
 金メダル獲得の2日後に行われた800m(4×200m)リレーでは第1泳者としてチームを牽引。宮崎、遊佐正憲、豊田久吉、横山隆志のメンバーで8分58秒4という当時としては驚異的な世界新記録で優勝を果たした。このとき、計時員が「時計が壊れたのではないかと思った」と述懐したという。このロサンゼルス五輪で、男子競泳陣が優勝を逃したのは400m自由形だけだった。その400m自由形にしても大横田勉が銅メダルを獲得しており、まさに日本はこのとき、最強の布陣だったといえる。
 浜松一中を卒業した宮崎は、慶大に進学。引退後は実業界や日本水連理事などとしても活躍し、1989年12月30日、死去した。=敬称略(昌)