レスリング・吉田義勝
2013年3月6日
1960年ローマ五輪で金メダル「ゼロ」に終わった日本レスリング。自国開催となった64年東京五輪での「金メダル獲得」はまさに至上命令だった。選手たちはそんな重圧をはね返し、“命令”に見事に応えた。フリーで3個、グレコローマンで2個の金メダルを獲得してみせたのだ。そして、金メダルラッシュの先陣を切ったのが、フライ級(52kg以下)の吉田義勝だった。
1941年10月30日、生まれ。北海道旭川市出身。レスリングに取り組むようになったのは、中学3年のときに1956年メルボルン五輪で金メダルを獲得したウエルター級の池田三男らのパレードを見て憧れたことがきっかけだったという。旭川商業に進み、インターハイ2位などの実績をあげ、日大に進学。着実に力をつけてはいたが、国内ナンバーワンではなく、東京五輪出場は「無理だろう」と思っていたという。だが、スパルタ指導とその発想力で「八田イズム」として知られた八田一朗ら日本レスリング協会幹部が、五輪代表に選んだのは吉田だった。それだけに重圧は強烈だったに違いない。
大学4年で迎えた五輪の舞台。期待通りに初戦から順調に勝ち上がった吉田は、3回戦で前年の世界王者、ヤニルマズ(トルコ)に判定勝ち。5回戦が最大のヤマ場だった。相手は「日本人キラー」とも言われた強敵のアリエフ(ソ連=当時)。頭を低くして吉田に組み付いたアリエフは、そのまま中央に引き寄せる…。そのときだった。吉田の手がアリエフのかかとに伸びた。バランスを崩し、尻もちをつく相手。この絶好のチャンスを逃さず、勝利を引き寄せた。勝利の背景には徹底した分析もあったという。アリエフは相手を引き寄せる際、かかとに体重をかけるクセがあり、それを見つけていたという。「金メダル」を確信できた勝利。それだけに勝利のあとは涙があふれた。迎えた決勝の相手は格下の張昌宣(韓国)。危なげなく、勝利を収めた吉田はこの階級で日本人初の金メダルに輝いた。
日大卒業後、明治乳業に入社し、取締役にまでなった吉田。仕事でも「八田さんの教えは役だった」という。そんな吉田にはもう一つ、後日談がある。大学の卒業式に向かう際、電車の網棚に「金メダル」を置き忘れるという失態を演じている。後日、金メダルは手元に戻ったが、当然のように八田には大目玉を食らったという。=敬称略(昌)