サッカー・奥寺康彦
2013年2月4日
1968年メキシコ五輪で銅メダルに輝いた日本サッカー界。だが、その後は長い低迷期に入った。サッカーではアジアで初めて獲得したメダルという興奮も大きかっただけに、その後の“闇”もまた深かった。実際、苦しい時代は1993年のJリーグ開幕まで続いたといっても過言ではない。そんな日本サッカー界のいわば“暗黒時代”にあって一条の光ともいえる存在だったのが奥寺康彦。当時、世界最高峰のリーグといわれたドイツ・ブンデスリーガで活躍した初めての日本人選手だった。
1952年3月、生まれ。中学時代にサッカーを始め、相模工大付高(現・湘南工科大付高)卒業後、1970年に日本リーグ(当時)の古河電工入り。FWとして頭角を現わすと、日本ユース代表を経て、日本代表に選出された。大きな転機は1977年に日本代表がドイツで行った合宿に参加したことだった。この合宿が奥寺のサッカー人生を大きく変えることになる。当時、FCケルンの監督だったバイスバイラーが奥寺のプレーに注目。そして正式なオファーを出したのだ。サッカーとしては後進国の日本からの入団。レベルが低く、通用するはずがないと見られていただろうし、右も左も分からない異国の地、そしてサッカー先進国での挑戦。本人も不安が大きかったようだ。だが、そうした予想に反して、ブンデスリーガで見事に活躍を果たす。ケルン、ブレーメンなど3つのクラブを渡り歩き、通算9年間在籍。その間、63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでにブンデスリーガ通算235試合に出場し、25得点を挙げた。FWではなく、DF、MFに回れたのも活躍の場を広げる要因になった。そして、その正確無比で安定したプレースタイルから、地元ファンからは「東洋のコンピューター」と呼ばれるまでに定着し、いまでも名前が挙がるほどだという。日本サッカー協会の小倉純二名誉会長も「奥寺は(ドイツで)1人で努力し、活躍した。奥寺によって日本はドイツの仕組みが分かった」とたたえる。Jリーグ発足にも多大な影響を与えたといえる。
そして1986年、自らの欧州での経験を日本サッカー界に伝えたい、として帰国。古巣の古河電工に復帰し、木村和司とともに日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結んで注目を集めた。チームの一員としてもアジアクラブ選手権優勝に貢献。日本代表にも復帰し、ソウル五輪アジア最終予選に臨んだが、五輪出場はかなわなかった。1987〜88年シーズンを最後に現役引退。その後はJリーグの市原(現J2千葉)監督や横浜FC社長などを歴任するなど、後進の育成やサッカー界の発展に力を注ぐ。2012年8月には日本サッカー殿堂入りを果たした。=敬称略(昌)