次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2013-1-17

野球・飛田穂洲

2013年1月17日

 「学生野球の父」と呼ばれる飛田忠順の野球人生は、1907(明治40)年に水戸中学から早稲田大に入学し、安部磯雄野球部長と出会ったことに始まる。安部という人物にも魅せられたのだろう。安部を通じて野球の魅力を知った飛田は競技に打ち込み、主将にも選ばれるまでに熟達していった。だが、残念なことに早慶戦の中止時代。早大はもっぱら米国の大学チームを相手に腕を磨いた。この米国との対戦が飛田の運命に大きな影響を与えた。
 そもそも早慶戦が中止されたのは飛田が入学する前年の1906(明治39)年秋、1勝1敗で迎えた第3戦を前にしてのことだった。早慶両校の学生の余りの熱狂ぶりに、両校の話し合いもあって、やむなく試合が中止されたという。ライバル慶大との対戦が復活するのは1924(大正14)年まで待たねばならなかった。そして奇しくもこの1924年に飛田は後に就任した早大監督を辞任している。そして「早慶戦」のなかった飛田にとって、慶大に代わる宿敵がシカゴ大学だった。
 1910(明治43)年、来日したシカゴ大学と対戦した早大は苦い経験を味わった。本場の大学が相手だったとはいえ、まさかの全敗。この責任を取って飛田はなんと引退し、コーチ役に回る。いまでは考えられない責任の取り方だが、打倒シカゴ大の一念は胸にしっかと刻まれた。1920(大正9)年に早大で初の専任コーチ役として初代監督に就任。ベースボールを、日本の武道に通じる「野球道」と捉えた飛田は、学生野球は教育の一環であり、取り組む姿勢として「一球入魂」という言葉を用いて説いた。こうした教えは、いまも学生野球に多大な影響を残している。気持ちを込めた厳しい練習の成果は実って黄金時代の基礎築く。そして迎えた1925(大正14)年、シカゴ大と対戦した早大は、ついに雪辱を果たす。宿願を遂げた飛田は、早慶戦復活を待たずに野球部監督を辞任。翌1926(大正15=昭和元)年に朝日新聞社に入社し、神宮や甲子園で六大学野球や高校野球の野球評論に、穂洲(すいしゅう)の筆名で健筆をふるうようになった。
 戦争が野球に暗い影を落とした時代には、強まる野球への批判に「欧米のものを排撃するなら、日本の軍隊は鎧兜に、槍なぎなたをつかうのか」などと野球擁護の論陣を張った。しかし、戦局が悪化していく中、野球への批判は一層強まっていった。そうして1943年10月、文科系大学生の徴兵猶予廃止の方針が決定すると、最後の早慶戦の実現に慶應義塾塾長の小泉信三らとともに奔走。戦後は1946年(昭和21年)の日本学生野球協会の創設や「学生野球基準要綱」の作成など、野球復活に力を尽くした。
 1886(明治19)年12月、茨城県大場村(現・水戸市)に生まれた飛田。その生誕地には「一球入魂」と刻まれた記念碑が建つ。1956(昭和31)年に紫綬褒章受章。1961(同36)年、野球殿堂入り。1965年1月、逝去。78歳だった。=敬称略(昌)