ボクシング・桜井孝雄
2012年12月5日
2012年夏、ロンドン五輪のミドル級で村田諒太が金メダルを獲得するまで48年間に渡って、日本アマチュアボクシング界で唯一の金メダリストが桜井孝雄だった。日本勢がボクシングに初出場したのは1928年アムステルダム五輪。以来、五輪の頂点に立ったのはこの2人だけだ。
1941年9月25日生まれ、千葉県佐原市(現香取市)出身。佐原一高(現佐原高)でボクシングを始め、全国高校総体を制した桜井だが、競技を始めた理由はちょっと変っている。高校の必修クラブの一つにボクシング部があり、指導者も不在。思うままに練習に取り組める環境が気に入ったのか、ボクシングにのめり込んでいった。そして“自己流”で高校王者にまでなったというのだから、素質と努力は群を抜いていたのだろう。ただ、ボクシングをしていることは最初、両親に隠していたという。実力がついていくに従い、隠しきれなくなって打ち明けるのだが、「学生の間だけ」という約束だったという。それが“唯一の金メダリスト”となり、一生をボクシングとともに歩むようになるとは…。ボクシングとの出会いは、運命的だったと言えるかもしれない。
中大に進学した桜井は大学4年、23歳のときに1964年東京五輪を迎える。20競技が実施された東京五輪で、参加国が最も多かったのが陸上競技。その次がボクシング(10階級実施)の62カ国だった。桜井が出場したバンタム級には32人がエントリー。1回戦、2回戦ともに順調に判定勝ちを収めた桜井は、準々決勝でも右フックや左ストレートが決まり、5-0の判定で快勝。続く準決勝は、優勝候補に挙げられていたロドリゲス(ウルグアイ)との対戦となったが、強打にまかせて押してくるロドリゲスを、冷静に受け流し、軽快なフットワークで攻撃に転じた桜井は、ここでも5-0で勝利を収めた。
迎えた決勝は、鄭申朝(韓国)とのサウスポー同士の対戦となった。第1ラウンドからダウンを奪った桜井はその後も一方的な展開で、4度のダウンを奪ってRSC(レフリー・ストップ・コンテスト)勝ち。「打たせないで打つ」と言われた通り、天才的とも言われた防御を生かした技巧派が頂点に立った瞬間、青コーナーにいた監督の田中宗夫、コーチ、そしてライト級の白鳥金丸らが駆け寄って日本初の金メダルボクサー誕生を祝った。
翌1965年に、「実力を試したい」と三迫ジムからプロデビュー。22連勝後の1968年7月には、世界バンタム級王者ライオネル・ローズ(豪州)に挑戦したが、0-2の判定で敗れた。その後、1969年に東洋王座を獲得。2度の防衛後、1971年に引退。プロ戦績は30勝4KO2敗だった。引退後は少し回り道をしたが、東京・築地でジムを経営。そしてロンドン五輪で日本2人目の金メダルボクサー誕生を見ることなく、2012年1月、70歳でこの世を去った。=敬称略(昌)