次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-11-28

野球と小泉信三

2012年11月28日

 慶応義塾塾長を務め、戦後は今上天皇の皇太子時代の教育参与という重責も果たした経済学者であり、教育家の小泉信三が野球殿堂入りしていることを意外に思う向きもあるかと思う。だが、小泉とスポーツとの関わりは濃密で、1922(大正11)年から約10年間も庭球部長を務めるなど、慶応義塾体育会の発展にも力を注いだ。日吉キャンパスの庭球部コート脇には記念碑があり、そこには小泉の「練習ハ不可能ヲ可能ニス」との言葉が刻まれている。
 1888(明治21)年5月、慶応義塾塾長や横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉の長男として東京市芝区三田に生まれる。慶応義塾普通部を経て1910(明治43)年3月、大学部政治科を卒業し、大学部教員となった。その後、英国、ドイツに留学。その際、学生時代にテニスに親しんでいたこともあってだろう、1913(大正2)年のウィンブルドン選手権を観戦。当時、大会4連覇中だったアンソニー・ワイルディング(ニュージーランド)の著書を日本に送り、テニスを推奨してもいる。
1916(大正5)年3月に帰国し、1920(大正9)年4月に経済学部教授となり、1933(昭和8)年11月に塾長に就任した。以来13年余にわたり塾長として教育等に尽力。スポーツとの関わりでは、1943(昭和18)年10月16日に開催された出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる最後の早慶戦)が名高い。戦時下にあって学生野球が中断を余儀なくされる中で、毅然としてスポーツ精神の重要性を説いた小泉は「最後に早稲田ともう一度試合がしたい」という野球部員の要望を快諾し、早稲田大野球部に試合を申し込む。そこには小泉の「学徒出陣に赴かざるを得ない学生等に、せめてもの最後の餞を残したい」という思いが強くあった。依頼を受けた早稲田の飛田穂洲野球部顧問らも思いは同じ。だからこそ渋る大学側との交渉を続けた。しかし、早大総長らは当時の情勢を理由に試合の開催を認めず、難航。直前まで実施が危ぶまれたが、非公式戦という形をとって10月16日に戸塚球場で開催することを決めた。
試合は10-1で早稲田の勝利に終わったが、勝敗は関係なかった。スタンドのどこからともなく始まった「海ゆかば」はやがて大合唱となり、両校の応援歌や校歌も肩を組んで涙を流しながら何度も歌われた。また、試合に際し、特別席への案内を断わり、「私は学生と一緒の方が楽しい」と言って学生席で観戦したという小泉。その姿に “らしさ” が垣間見える。小泉自身、長男を戦争で亡くし、さらに1945(昭和20)年の東京大空襲で、自らも顔面にやけどを負った。1947(昭和22)年に塾長を辞任。1959(昭和34)年11月、文化勲章を授与される。1966(昭和41)年5月、逝去。78才だった。そして1976年に特別表彰として野球殿堂入りを果たすことになる。=敬称略(昌)