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2012-11-14

野球・橋戸信

2012年11月14日

 都市対抗野球大会の最高殊勲選手に贈られる橋戸賞。チームが各都市を本拠地とする米大リーグに着目して1927年に同大会を創設し、その発展に貢献したのが「賞」にその名を残す橋戸信だった。
 1879(明治12)年3月生まれ、東京都出身。青山学院中学でエース。卒業後の1901(明治34)年に東京専門学校(翌年、早稲田大と改称)に入学した。早大ではこの年の11月に野球部が創部され、しばらくして橋戸が入部する。野球部初代部長の安部磯雄教授の説得によってともいわれるが、創成期の野球部を牽引した1人だ。1903年、橋戸は他の部員2人とともに、慶応義塾大野球部寮に赴き、「挑戦状」を差し出す。この挑戦状に、慶大が応える形で実現したのが早慶戦で、記念すべき第1回は同年11月に開催された。いまに続く早慶戦のきっかけとなった挑戦状を書いたのが橋戸だったと言われている。
 当時、野球部を創部したばかりの早大に対し、慶大は当時最強だった第一高等学校(現・東京大)に次ぐ位置づけで、いわば先輩格。結果も11-9で慶大の勝利に終わる。いまでは考えられないが、この試合を報じたのは時事新報(現・産経新聞)と万朝報(廃刊)の2紙だけで、いずれも小さい扱いだった。だが、翌年6月に早大、慶大が立て続けに一高に勝利すると、俄然、注目を集めるようになっていく。ちなみに第2回早慶戦(1904年6月)は早大が13-7で雪辱を果たした。
 早大は1905年4月4日から6月29日の日程で米国遠征を挙行。第1回早慶戦からこの初の渡米遠征まで主将で名遊撃手としてならしたのが橋戸でもあった。遠征後、橋戸は野球の母国で得た数々の新しい技術を「最近野球術」としてまとめ、刊行。「頑鉄」というペンネームで独特の野球批評を展開する。1907(明治40)年に大学を卒業すると、渡米して数年を過ごし、帰国後、萬朝報を経て1916年(大正5年)、大阪朝日新聞社に入社。全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)にも関わった。その後、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入り、ここで米大リーグではすでに定着していた各都市を本拠地とするフランチャイズ制を日本にも持ち込み、都市の代表チームが競い合う大会を創設。1927(昭和2)年に都市対抗野球大会として開催にこぎ着けた。
 都市対抗野球が記念の第10回大会を迎える1936年の3月に急逝。その功績をしのんで、その大会から「橋戸賞」が設けられた。1959(昭和34)年、師でもあった安部磯雄らとともに特別表彰で第1回の野球殿堂入り。文壇とも交遊が深かったという橋戸は里見弴、久米正雄ら野球好きの文人らが結成に関わった「鎌倉老童軍」を応援。同チームは都市対抗にも出場し、話題となったという。=敬称略(昌)