陸上三段跳び、五輪選手団長・大島鎌吉
2012年11月7日
競技者としては金メダリストの影に隠れてしまった感があるが、その後のスポーツ界への貢献は絶大だった。1932年ロサンゼルス五輪男子三段跳びで銅メダルを獲得し、日本選手団主将として臨んだ1936年ベルリン五輪でも6位入賞を果たした大島鎌吉。ロサンゼルスで南部忠平が、ベルリンでは田島直人が金メダルに輝いた三段跳びにあって、「三段跳びは日本のお家芸」と言われた絶頂期を築いた1人であるばかりでなく、1964年東京五輪では日本選手団団長として選手たちの活躍を支えた。
1908年11月生まれ、石川県金沢市出身。金沢商業から関西大学へ進み、在学中にロサンゼルス五輪に出場。金メダルを獲得した南部は、当時の世界記録(7m98cm)を持っていた走り幅跳び(銅メダル)が専門で、三段跳びでは大島に金メダルの期待がかかっていた。だが、アクシデントに見舞われる。大会直前に風呂で大やけどを負ってしまい、万全とは程遠い状態で本番に臨まざるを得なかった。1934年に大学を卒業後、毎日新聞社入社。その年の日米対抗陸上で15m82cmの世界記録(当時)をマーク。実績からみてもベルリン五輪でのメダル獲得が有望視されたが、ここでも金メダルに輝いたのは走り幅跳びが専門の田島で、大島はメダルに届かなかった。競技者としてはいささか華やかさに欠ける面はある。だが、その才が花開く舞台は後に用意されていた。
毎日新聞社では運動部記者として活躍。その後も日本体協理事や大阪体育大副学長、名誉教授などを歴任するが、何と言っても持てる力を遺憾なく発揮した舞台は、1964年東京五輪だった。開催国としてメダル量産を期し、1960年に東京五輪選手強化対策本部が設置されると、1960年度から64年度までの5カ年計画が立てられた。綿密に練られた計画を遂行する旗振り役を担ったのが大島だった。選手強化対策本部長の田畑政治を、副本部長として支え、計画を予定通りに実施いていく。同本部が5年間に使った経費は約20億6000万円余。東京五輪開幕まで残り2年となった頃からは同本部の責任者らが国会に呼ばれ、説明を求められることも度々だったという。国を挙げて東京五輪を成功させようという“意気込み”の表れでもあったが、単刀直入な質問も浴びせられた。「金メダルはいくつ取れるのか」。ちなみに1956年メルボルン、60年ローマ五輪での金メダル数はともに4個。ここで田畑に代わって同本部長に就任していた大島はきっぱりと答えた。「金メダル15個を獲得します」―。
大島選手団長以下、役員、選手計437人で臨んだ東京五輪は10月10日、「世界中の秋晴れを集めたような、きょうの東京の青空です…」(NHK実況)という快晴の下で開幕。各競技で連日のように日本選手が活躍し、”公約” を上回る金16、銀5、銅8個のメダルを獲得し、大成功のうちに閉幕した。大会後の報告書に、大島はこう記す。「順調にいけば金メダル18〜23個を手にできると勘定していた。だが、五輪。不測の事態は至るところに待ち構えている。まずは15個……こうして確信をもって戦いに臨んだのであった」。無謀とも思えた「金15個」は勝算があっての数字だった。=敬称略(昌)