スピードスケート・清水宏保
2012年9月11日
2010年バンクーバー五輪で、長島圭一郎が銀メダル、加藤条治が銅メダルを獲得したスピードスケート男子500メートルは、日本のお家芸ともいわれる。だが、五輪で金メダルを獲得したのは1998年長野五輪の清水宏保しかいない。
「人より小さいのだから、人の何倍も努力しなさい」。小学生の頃からのスケートの師で、高校時代に亡くなった父、均さんの教えを胸に刻んできた清水は1993年2月のワールドカップ(W杯)イタリア大会で初優勝。同月の世界スプリント選手権では総合3位となり、世界にその名を知らしめた。五輪初出場となった94年リレハンメル大会では5位入賞を果たした。
ただひたすらに速くなることを目指した男は、その後も成長を続ける。スピードスケートにおいて、手足が短いのは不利とされるが、身長162センチと小柄な清水は“短所”を“長所”にすべく、氷面すれすれの低い姿勢で滑ることで空気抵抗を減らす「ロケットスタート」を完成させ、1996年3月には35秒39の世界記録を樹立。そして、“世界一速い男”として、長野五輪を迎える。
母国開催の五輪。プレッシャーは相当のものだったはずだが、2月9日の大会第3日に行われた男子500メートル1本目を、清水は35秒76の五輪新記録で制し、金メダルに王手をかけた。翌10日に行われた2本目は、途中のレースで転倒者が出て、中断するアクシデントが発生。集中力が途切れてもおかしくない事態だったが、清水は冷静だった。中断中にはリンクに大の字になり、気持ちを落ち着かせた。そして、前日に自身がマークした五輪記録をさらに更新する35秒59で堂々の1位。日本スケート界に悲願の金メダルをもたらした。
1000メートルでも銅メダルを獲得した清水はその後も、挑戦にあふれた競技生活を続ける。五輪後には所属先の三協精機を退社し、日本スピードスケート界初のプロ選手としてNEC所属に。2001年秋に交通事故で腰を痛めながら、翌年2月のソルトレークシティー五輪では500メートルで銀メダルを手にした。バンクーバー五輪の出場を逃し、引退。だが、その魂は後輩達に引き継がれ、バンクーバーでの銀、銅メダルにもつながった。もちろん、2014年ソチ五輪でも男子500メートルは日本にとって重要な種目であることに変わりはない。=敬称略(謙)