次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-7-9

柔道・園田勇

2012年7月9日

 19歳のときから中量級(80kg級)でありながら体重無差別で争う全日本選手権に10度出場し、1969年の世界選手権では軽量級の兄、義男と兄弟優勝を果たした園田勇が、29歳で迎えた1976年モントリオール五輪でついに金メダルに輝いた。園田が制した中量級は、4歳年下で「業師」「天才」の異名をとった藤猪省太が1971、73、75年と世界選手権で3連覇を果たしており、モントリオール五輪でも大本命と見られていた。だが、園田自身は周囲のそうした声にも「チャンスはある」と自らを信じていたという。
 1946年11月、福岡県出身。5人兄弟の末っ子で、福岡電波高から福岡工大に進む。1973年のローザンヌ世界選手権では銀メダル。逆に世界選手権でも無敵の香川県出身、藤猪はその強さに磨きがかかっていた。それだけに園田を「過去の人」と見る向きは多く、モントリオール五輪に向けては当然、「藤猪の金メダルは確実」という声が大勢を占めていた。実際、藤猪は五輪後の79年パリ世界選手権も制して4連覇を達成し、「世界最強」とも呼ばれるに至る。それでも4年に1度の舞台、五輪には「縁」はなかった。
 モントリオール五輪は肘の故障を引きずって国内選考会に臨む。一方の園田は「ベテランといわれることほど面白くないことはない」と正月から8キロのランニングはもちろん、連日の猛稽古。迎えた4月の全日本で園田は藤猪に小差の判定勝ちを収めると、5月の五輪代表選考試合では “逃げ” の巴投げをかける藤猪をにらみつけ、寝ているところにまで投げ技をかけにいく闘志で、代表切符をもぎとった。

 五輪本番でも、その闘志をむき出しにして勝ち進む。決勝のドボイニコフ(当時ソ連)戦。旧ソ連で開発された格闘技・サンボ出身の難敵だったが、タックルで左足をとって肩車にくるのを見越していた園田は、2度の大内刈りでポイントを挙げた。悲願の金メダル。このときばかりはいかつい顔をくしゃくしゃにして男泣きに泣いた。ちなみに前日に軽量級で金メダルを獲得した二宮和弘とは同じ年で、福岡県警の同僚でもあった。

 一方の藤猪。故障に泣いたモントリオール五輪に続く1980年モスクワ五輪では、実力通りに国内選考会に快勝して代表切符を獲得する。しかし、ソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に伴い、日本がモスクワ五輪をボイコットしたため、五輪の舞台に立つことは叶わなかった。国際大会で外国勢に対して無敗という藤猪。だが、現役時代はついにオリンピックと無縁に終わる。ただし、引退後、審判員として五輪の舞台に立つ。そして園田も藤猪もそれぞれの立場から後進の育成に力を注いでいる。=敬称略(昌)