次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-6-8

プロ野球・長嶋茂雄

2012年6月8日

 1959年6月25日。梅雨真っ只中の東京・後楽園球場では午後7時から、巨人対阪神戦が行われた。この試合は、昭和天皇が観戦したプロ野球史上初めての天覧試合だった。戦後まだ14年。「人間宣言」したとはいえ、昭和天皇は、まさに雲上人で特別な存在。球場では野次ひとつない緊迫した試合が展開された。

 3回表に阪神が1点先制。5回裏には4番長嶋茂雄がソロ本塁打。この回に巨人はもう1点追加して逆転に成功。しかし、6回表に阪神は4番藤本勝巳の2点本塁打などで3点を入れ、4-2と再び試合を引っ繰り返した。ところが、試合は再び動く。7回裏に6番ルーキーの王貞治が2点本塁打を放ち、同点。そして同点のまま9回裏を迎えた。

 延長に入ると警備の都合上、昭和天皇は試合途中ながら帰ることになっていた。そこに先頭打者で長嶋が登場する。阪神のルーキー・村山実にカウント2-2と追い込まれながら、インコース高めのボール球を、レフト中段、ポールギリギリに打ち込み、サヨナラ劇を演出した。

 「ここぞというときに打つ」

 大舞台に強い “元祖お祭り男” とされる長嶋の選手人生を象徴する場面だった。

 長嶋は1958年、立教大から巨人に入団。4月5日のデビュー戦でこそ、国鉄・金田正一に4三振を喫したが、ルーキーながら全試合に出場し、打点王と本塁打王を獲得。天覧試合があった1959年から3年連続で首位打者も獲得した。

 対戦する相手からことごとく、「計算できないバッター」と評され、ボール球でもなんでも来る球を天性のカンで打ち返す“野武士ぶり”や、豪快な空振りで脱げたヘルメットが三塁方向へ飛ぶ様など、ファンの記憶に残るシーンは数多い。

 王とともにON砲と呼ばれ、アベックホームランは天覧試合を手始めに、長嶋の引退試合まで計106本を数えた。

 「我が巨人軍は永久に不滅です」

 巨人の9連覇(V9)を王とともに支えてきた長嶋は1974年10月14日、この言葉とともに17年間の現役生活にピリオドを打った。背番号「3」は巨人の永久欠番となっている。

 その後も、巨人監督を2期計15年間務め、チームをリーグ優勝5回、日本一2回に導いた。2002年には、アテネ五輪日本代表チームの監督となったが、大会前の2004年3月に脳梗塞で倒れ、指揮を執ることはできなかった。

 長嶋は1936年、日本初のプロ野球リーグ「日本職業野球連盟」の発足の年に産声を上げ、プロ野球とともに生き、そして発展に貢献してきた。まさに不世出の「ミスタープロ野球」、だからこそ「ミスター」なのである。=敬称略(銭)