レスリング・金子正明
2012年5月2日
1960年メルボルン五輪で頂点に立った笹原正三、64年東京五輪で金メダルに輝いた渡辺長武と続く、レスリングフリースタイル・フェザー級の伝統を守ったのは、28歳と遅咲きの金子正明だった。それも攻撃精神をモットーとした「八田イズム」にいわば反するような守り主導のレスリングでの快挙でもあった。
1940年7月生まれ、栃木県出身。専修大卒業後、自衛隊体育学校へ。こう見るとレスリングの”エリート”とも思えるが、足利工高入学時にはバスケットボール部の門を叩いていた。ところが、偶然出場したクラス対抗のレスリング試合で優勝したのがきっかけで転向。実力をつけて地元開催の64年東京五輪はバンタム級での出場を目指したが、及ばずに悔し涙を流した。自らに足りないものは何か―。五輪後、自分自身を見詰め直した末に階級を上げると、メキメキと頭角を現していった。それでも性格的におとなしかったという金子。そうした性格を反映してか、試合でも先制されてから逆転するケースが目立った。返し技からのフォール(エビ固め)が十八番で、1966、67年の世界選手権を制し、連覇を果たすまでに成長。しかし、股さきの笹原、圧倒的な強さから「アニマル」とも評された渡辺という攻撃型な金メダリストと比べられ、心ない批判にもさらされた。相手の攻撃を見て、カウンターを狙う「後の先」のスタイルに、「あれでは審判の受けが悪い」という声が絶えなかったのだ。
それだけに68年メキシコシティー五輪での活躍は、格別なものがあった。当時28歳で、妻子ある自衛隊員。現在では珍しくもないが、当時は家庭を持ってこの年齢まで競技を続ける例はあまりなかった。それまでに世界を2度も制していたが、五輪はまた別格な存在だった。そのメキシコで、5回戦までフォール勝ち3、優勢の判定勝ち2という圧倒的な強さで決勝リーグに進む。そして迎えた6回戦では、エニオ・トドロフ(ブルガリア)と引き分けたものの、7回戦でアバシ(イラン)を圧倒して金メダルを獲得してのけた。
金メダルの知らせに、実家では母親がメキシコに向け、祝電を打ったという。内容は「ナイタゼンブナイタハハモソシテアニモ」。海抜2240メートルの高地での大会。「疲れたら守りである程度呼吸を整えられる」という守備型のスタイルが功を奏したとも言われたが、生来のまじめさで一途に続けた努力で才能を開花させた結果だった。それだけに遅咲きの五輪王者は、表彰台で大粒の涙にくれ、感激に浸ったという。=敬称略(昌)