ボクシング・辰吉丈一郎
2012年3月9日
1986年5月、中学を卒業したばかりの少年が、岡山県倉敷市から大阪へ向かった。片道だけの電車賃を手にして。少年の名は辰吉丈一郎。幼い頃から父に「しょうもないことでもええから、絶対一番にならなあかん」と教え込まれた不良少年は「出世するけん」と言い残して家を出た。ボクサーになるためだった。
大阪帝拳ジムに入門すると、91年9月、21歳は当時の国内最短記録となるプロ8戦目で世界ボクシング評議会(WBC)バンタム級王座を奪取。奔放で鋭利なボクシングセンスを誇る “浪速のジョー” のチャンピオンロードは順風満帆かと思われた。しかし、華やかな才能はここから紆余曲折の道をたどる。まず、左目の網膜裂孔が判明。1年間のブランクなどを経て、再び世界王者に返り咲いたが、今度は左目に網膜剥離が見つかってしまう。国内試合を統括する日本ボクシングコミッション(JBC)は網膜剥離になったボクサーは試合できないと定めていた。まさに “致命傷” と言えた。それでも、その目はリングを見据え続けた。手術を受け、ハワイで復帰戦を強行。眼疾で返上していた暫定王座を再び手にし、JBCに特例で国内復帰を認めさせてしまう。
JBCが代わりに示した条件は「負ければ引退」。注目を集めた薬師寺保栄との王座統一戦は殴り殴られ、12ラウンドを闘い抜いた。結果は0-2の判定負け。ジム関係者もファンも「今度こそ引退」と思ったのだが…。本人はリングから離れない。「ボクシングは自分の職業」と語る男は、海外でノンタイトル戦をこなし現役続行の道を模索した。すると、全日本ボクシング協会の後押しもあり、JBCが内規を改正。国内での試合が許可された。無理を通して挑戦したWBCジュニアフェザー級王者、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)との世界戦だったが、無残にもKO負けしてしまう。再戦でも敗れ、王座奪回に三度失敗。期待が大きかった分、ため息も大きかった。眼の良さと上半身の動きでパンチを外してきた全盛期のキレは影を潜め、限界説は色合いを濃くした。
迎えた97年11月。バンタム級に階級を戻し、大阪城ホールで王者、シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑んだ。すでに27歳になっていた辰吉は背水の一戦で光を放つ。
16戦全勝の20歳の王者に対し、5回、左ボディーで体を二つ折りにし、右ストレートでダウンを奪う。6回、相手の渾身の反撃にダウン寸前まで追い詰められるが、7回、右のショートから左ボディーの的確なコンビネーションでシリモンコンをマットに沈めた。立ち上がった相手に連打に次ぐ連打を浴びせレフェリーストップ。新チャンピオンは跳び上がり、そして、リングに顔を埋めて泣いた。
会場内に何度も何度も熱烈な「辰吉」コールが響き渡る中、その目が見たものは何だったか…。
「きょうはリングに上がるのが怖かった。辰吉という名前が世間に知られていなかったら、プライドがなかったら、逃げていた」
3年ぶり3度目の世界の「一番」。眼疾にも限界説にも屈しなかった男が、そこにはいた。=敬称略(志)