次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-3-2

柔道・木村政彦

2012年3月2日

 「木村の前に木村なく 木村の後に木村なし」
 「姿三四郎」の作者である富岡常雄にこう言わしめた鬼の柔道家が木村政彦であった。その輝かしい実績と能力を併せ持ちながらも、戦争によって人生の歯車を変えられた1人でもあった。
 熊本県川尻町(現・熊本市)で1917年に生まれた。旧制鎮西中(現・鎮西高校)4年時に全国大会優勝へ導き、同中OBで拓殖大の師範だった牛島辰熊に引っ張られて拓大に進学。牛島の自宅に住みこみながら、毎日、庭のカエデの木に巻いた帯で1,000本の打ちこみ、睡眠時間3時間、10時間以上の練習を続けた。出稽古も重ね、異種格闘技である空手も学ぶ研究熱心さであった。
 この努力が実り、けた外れのパワーと強烈な大外刈り、関節技の腕がらみを武器に、1937年から全日本選手権3連覇を果たした。1940年の天覧試合の決勝においても、わずか42秒で一本背負いによる一本勝ちを決めた。
 1941年に大学を卒業し、翌年召集された。戦後復員したが、GHQによって学校柔道は禁止され、柔道は大っぴらにできなくなった。故郷の熊本に帰って、生活費をヤミ屋などで稼ぐ日々を送った。しかし柔道への気持ちは捨てることなく、再開された全日本選手権で1949年に戦後初出場し、ブランクを感じさせることなく、見事に優勝を飾った。
 柔道家の困窮を救おうと、1950年に牛島が起こした「国際柔道協会(プロ柔道)」に参加、プロへ転向した。しかし、同協会はたちまち経営が悪化し、結核を患っていた妻の治療費を稼ぐ必要に駆られた木村は、同協会を脱退し、ハワイへ渡った。柔道の興行に参加し、米人を投げ飛ばすパフォーマンスは日系人の喝さいを呼んだ。プロレスへ誘われ、1951年にはブラジルへ渡る。グレイシー柔術の創始者とされるエリオ・グレイシーと対戦し、腕がらみでエリオの腕をへし折り、勝ちを収めた。以来、腕がらみは、ブラジルでは「キムラ・ロック」と呼ばれている。
 1954年、シャープ兄弟の来日に合わせて、パートナーとして木村を指名した力道山とタッグを組む。この興行は、前年にはじまったテレビ放送に追い風を受け、国民的プロレスブームを巻き起こした。だが、いつも引き立て役とされた木村は不満を持ち、袂を分かった。同年12月には「昭和の巌流島」と呼ばれる力道山との決戦に挑み、KO負けを喫す。力道山が出来レースを裏切った、とされるが、このみじめな敗北によって木村は社会から“抹殺”された状態に陥る。
 プロ転向以来、講道館からも破門状態で、柔道にも関われなかったが、1961年、師の牛島に「戻って来い」と呼び戻され、拓大柔道部監督に就任。4年後には低迷していた同大を全日本学生柔道大会で優勝へと導いた。
 1983年に勇退し、1993年に享年75歳で死去。まさに波瀾万丈の人生であった。=敬称略(銭)