次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-2-24

ボクシング・ファイティング原田

2012年2月24日

 アルバイトで貯めた入会金を握りしめて、笹崎ボクシングジムの門を叩いたのは中学2年のときだった。父親が倒れ、中学の授業が終わると米穀店で働く日々。1943年4月生まれ、世田谷区出身の原田政彦少年は、いつしかボクシングの練習風景に心を惹きつけられていった。以来、授業を終えると米穀店経由でジムへ。中学卒業後、一度就職したものの、1カ月で辞職。理由は「練習時間が思うように取れない」だった。ボクシングで生きる―。思いは定まった。
 「人が10ラウンドのスパーリングをするなら、15ラウンド。10km走るなら15km走った」。努力の末に1960年2月、プロデビュー。62年10月には弱冠19歳で世界フライ級王座に挑む機会を得る。「シャムの貴公子」と呼ばれたポーン・キングピッチ(タイ)との対戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、デビュー3年目の原田にチャンスが回ってきた。「勉強のつもりと思っていた」というが、結果は11ラウンドKO勝ち。相手をコーナーに追い詰め、連打を浴びせての勝利に、会場は沸きに沸いた。しかし、翌年1月にバンコクで行なわれたポーンとの再戦は際どい判定ながら王座陥落。この後、原田は減量苦から、バンタム級に転向する。
 63年9月には世界バンタム級3位にKO負けを喫するが、再起。そしてつかんだバンタム級世界王座との挑戦権。相手は「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名を持つエデル・ジョフレ(ブラジル)だった。世界王座を獲得した試合と8度の防衛戦にいずれもKO勝ちを収めた異名通りの強打者。前評判は絶対的に不利と言われていたが、迎えた1965年5月、いままでのスタイルを捨て、アウトボクシングに出た原田。一進一退の展開が続き、15ラウンドが終わる。2―1の判定で勝ち、見事に2階級制覇を成し遂げた。翌年5月には2度目の防衛戦でジョフレと再戦、ここでも判定勝ちを収めた。
 体重が増えやすい体質だった原田には、常に減量との闘いが付きまとった。試合が近づくとジムの水道は全て針金で封印。原田は「水洗トイレの水さえ飲みたくなった」。それほどの減量苦だっただけに、階級を上げていかざるを得なかった。69年7月にはWBC世界フェザー級王者のジョニー・ファメション(豪州)に挑戦。シドニーで行なわれた試合で、3度もダウンを奪いながら、不可解な判定が相次ぎ「引き分け」。14ラウンドには王者は失神していたが、レフェリーがカウントを放棄、無理矢理立たせて試合を再開したほどだったという。まさに判定に泣き、3階級制覇は幻に終わった。
 翌年、ファメションとの再戦が東京で行なわれたが、原田はいいところ無く14ラウンドKO負け。そしてこの試合を最後に引退した。
 チャンスの際のラッシュの激しさを「狂った風車」とも表現された原田。引退後は日本プロボクシング協会会長などを歴任、ジムで後進の指導にもあたる。平成7年には日本人初の「国際ボクシング名誉の殿堂」入りを果たした。=敬称略(昌)