次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-1-20

フィギュアスケート・稲田悦子

2012年1月20日

 冬のスポーツの華であるフィギュアスケート。特に近年は、日本人男女はともに世界のトップレベルで戦い続けているが、大和なでしこがはじめて五輪に出場したのは、1936年2月のガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季五輪(ドイツ)。元祖“天才少女”、稲田悦子その人であった。
 開会式では、行進するその姿に、当時のドイツの総統、アドルフ・ヒトラーが「あの子供は一体何をしにきたのか」と思わず尋ねた。それほど目立って小さかった。欧米人と比較するまでもなく、日本人の中でも小さい身長127センチ。それも仕方がない。年齢は13歳だった。現在に至るまで破られていない、日本人の夏季、冬季を通じて五輪出場最年少記録である。
 氷とは無縁の大阪市の時計店の娘として生まれた。折しものブームに乗せられ、7歳からスケートをはじめた。1935年に初めて開かれた女子フィギュアスケート日本選手権を11歳で制した。そして手にした翌年の冬季五輪への切符だった。
 当時は冬季と夏季の五輪はセットであり、1936年は冬季がドイツ南部のガルミッシュ・パルテンキルヘン、夏季がベルリンで開かれた。ドイツにとっては国の威信をかけた五輪。ヒトラーが見守る中、稲田は、26人中10位の成績を収める。「みんな知らない顔ばかり。ダイコンやニンジンの中で滑っているみたいで気楽だった」。ヒトラーと握手もした。そんな気後れしない度胸と素質から、将来を嘱望された。実際、翌1937年から41年まで日本選手権を5連覇。しかし、1940年に予定されていた札幌冬季五輪(夏季は東京)は、戦争のあおりを受けて、日本が開催権を返上。出場は夢と消えた。
 第二次大戦中は五輪も世界選手権も中止となり、再び世界の舞台に立てたのは、1951年のイタリア・ミラノでの世界選手権。しかし28歳とすでに盛りの年齢を過ぎ、調子が乗り切れないまま、下位に沈んだ。翌年のオスロ冬季五輪には出場することなく現役を引退。まさに戦争に翻弄された選手人生であった。
 引退後は伯楽として、後進の育成に努め、1964年インスブルック冬季五輪で、教え子の福原美和を、日本人女子として初の5位入賞へ導いた。2003年度後期のNHK連続テレビ小説「てるてる家族」に登場するスケートコーチ・稲本栄子は、稲田がモデルとされる。
 2003年7月、胃がんのため、79歳の生涯を閉じた。その3年後。稲田が五輪に出場してからちょうど70年が経った2006年。トリノ冬季五輪で荒川静香が見事金メダルに輝き、日本人女子の悲願は成就された。天国で稲田は微笑んだことだろうか。=敬称略(銭)