次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2012-1-10

鬼塚喜八郎氏

2012年1月10日

 1945年8月に終戦を迎え、7年間の軍隊生活を終え、12月に郷里の鳥取に帰えった鬼塚喜八郎(旧名、坂口)のもとに、一通の手紙が届いた。軍隊時代の友人の知り合いで神戸に住む鬼塚夫妻からだった。
 鬼塚は、3男2女の末っ子として1918年5月、鳥取県明治村(現・鳥取市)の坂口家に誕生。後に長兄は村長も務めた。36年に旧制鳥取一中(現・鳥取西高)を卒業し、その後、軍隊に入隊。見習い士官の時代に、陸士出身の上田という中尉と懇意となった。鬼塚夫妻はこの上田の知り合いで、養子縁組を結ぶ予定だったという。その後、上田はビルマ戦線へ。鬼塚は留守部隊勤務となり、戦地に赴く上田中尉から「俺の代わりに老夫婦の面倒を見てほしい」と依頼された。
 「男の約束だ。破るわけにはいかない」。戦死した上田との約束を果たすべく、家族の反対を押し切って神戸に出た鬼塚は、上田の代わりに鬼塚家の養子となる。そして生活のために神戸で商事会社に勤務したが、商事会社とは名ばかりで実際はヤミ屋のような会社に愛想を尽かし、3年で退社。青少年の非行や犯罪が横行する状況を憂え、「これからの日本の建設のために、次代を担う青少年の教育に携わろう」と決意する。思いを具現化しようと焦る中、兵庫県教育委員会の保健体育課長だった堀公平の知遇を得た鬼塚は、堀から「健全なる身体に健全なる精神が宿る、という格言があるように、知育、徳育、体育を三位一体となって育成するにはスポーツが最適」と教示を受け、「スポーツの振興に役立つ仕事をしたらどうか。いまの少年たちは裸足でスポーツをしており、足を痛めて困っている。スポーツに打ち込める靴を作ってみては」と助言を受けた。後の「オニツカタイガー」、そして「アシックス」の始まりだった。

 まず堀が紹介してくれた靴工場で働き、靴作りを修行。そして1949年9月、社員4人で「鬼塚株式会社」を創業。バスケットシューズの開発に取り組み、暇があればコートに通い、選手の要望を聞き取り、改良に改良を重ねていった。その結果、タコの足の吸盤にヒントを得て、靴底を製作。1953年にはマラソンシューズの開発を目指し、トップ選手や大学教授から助言を仰ぎ、靴の中の空気を入れ換えて熱気を取り除く構造のシューズを開発するなど、数々の画期的な商品開発によって社業は発展していった。
 試練ももちろんあったが、1956年メルボルン五輪では、日本選手団用のトレーニングシューズとして正式採用され、64年東京五輪は、オニツカのシューズを履いた選手が大いに活躍し、金メダル20個を獲得した。その後も途上国へのスポーツ用具寄贈などを実現させるなど、「起業の精神」を忘れず、1988年に勲三等瑞宝章、2001年には国際オリンピック委員会(IOC)功労賞を受章。2007年9月、心不全のため死去、89歳。スポーツの意義、素晴らしさに心を動かされ、その発展に一生を捧げた一生だった。=敬称略(昌)