次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2011-12-20

大相撲・高見山

2011年12月20日

  “均一社会” である日本では、自分と異なるものをみると、とかく背を向けたがる。そんな環境で成功した外国人たちは誰もが、戸惑い、憤り、諦めを繰り返しながら黙々と鍛錬を積み、日本人を見返して来た。近年は、国際色豊か、を通り越して、母屋を乗っ取られた、とまで言われる角界でも、1960年代まで外国人力士は珍しく、草分けと言える高見山は、語るに忍ぶ苦労を重ねながら、持ち前の根性と明るさで、外国人力士初の優勝を果たしたのみならず、日米親善にも大きな役割を果たした。
 1964年2月、ハワイから19歳の高見山は、オリンピックを間近に控えて活気づく東京・羽田空港に降り立った。初めてみる雪に出迎えられ、異国に来たことを身にしみて感じさせられた。
 翌月には本名の “ジェシー” で初土俵を踏む。しかし、日本語や習慣も分からず、あぐらもかけず、稽古の股割りも出来ず、毎日殴られたという。マグロ以外の魚は食べたことがなく、ちゃんこにケチャップをかけて食べたこともあった。
 しかし、厳しい稽古にも耐え、激しいぶつかりを持ち味に、1967年3月に新十両、68年1月に新入幕、69年11月には小結昇進を果たした。進撃すればしただけ、 “外国人初” 、というタイトルがついた。
 1972年7月に13勝2敗で念願の初優勝。いまでは外国人の優勝は当たり前となっているが、もちろんこれも “外国人初” で、当時のニクソン米大統領から祝電まで届いた。
 1984年5月、40歳まで1カ月を残して、20年2カ月の現役生活にピリオドを打った。幕内在位97場所は、魁皇に2009年に破られるまで、長い間角界の金字塔だった。金星12個も現在でも歴代2位である。
 引退後も相撲界に関わり続け、年寄・東関を襲名し、1986年には高砂部屋から独立して東関部屋を起こした。名横綱・曙、人気者・高見盛を育て上げた。一方で、陽気な性格から、CMやテレビなどのメディアにもしばしば登場し、茶の間を沸かせた。
 2009年に65歳を迎え、相撲協会を定年退職した。これを受けて米下院は、相撲界での業績と日米関係への貢献をたたえる異例の決議を採択した。まさに、最高の “日米親善大使” であった。
 外国人力士が席巻する角界。国際化の流れの中で当然あり得るべき姿でもある。だからこそ、そして、いまこそ、高見山が日本と米国のかけ橋となったように、親善大使としての役割を外国人力士は肝に銘じる必要があるだろう。=敬称略(銭)